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いさなの浦里 ー房総捕鯨の発祥地勝山ー
勝山の捕鯨の始まり
鋸南町勝山は、江戸時代、捕鯨が行われてきた房総捕鯨発祥の地です。勝山の捕鯨はいったいどのように行われていたのでしょうか。記録として残る最も古い史料は、慶長十七年(一六一二)、安房国主、里見忠義が、伊勢神宮の御師、榎倉長兵衛に「毎年、領内で鯨の初水揚げがあった際には、鯨の皮を献上しましょう」と書かれた書状です。勝山は、海城勝山城を擁した里見水軍の本拠地。水軍として戦に駆り出されることもあった勝山の漁師たちは、その勇猛さと熟練した船のあやつりで、鯨に挑むことができたのではないか、という考えも成り立ちます。
日本の捕鯨の始まりは、紀州太地(和歌山県太地町)の和田覚右衛門が、慶長十三年に始めたのが最初と言われていますが、それに劣らず、ほぼ同時期に房総半島でも捕鯨が行われていたことは驚きです。
そうした勝山の捕鯨を、組織化したのが醍醐新兵衛です。醍醐家の出自については、諸説あって定かではありませんが、江戸時代初期には、勝山村の浜名主であった醍醐新兵衛定明(初代)が、漁師たちを鯨組として組織化し捕鯨業として成立させたと考えられます。勝山の捕鯨は、大組十七隻、親組十六隻、岩井袋組二十四隻の計三組五七隻の船株組織です。この船株は世襲制で、株の移動には、元締、醍醐家の許可が必要でした。これに、旗頭や世話人らの幹部と、羽刺などの総勢五百余名の海上乗組員がおり、他に出刃組、釜前人足などの陸まわり七十余名からなっていたと言います。
浮島沖の鯨を狙え
漁期は六月から八月の間のみで、浮島沖に回遊してくるツチクジラが獲物です。浮島の西側は、約四百~八百メートルの深みになっていて、鯨がやって来る鯨道と呼ばれていました。
浮上してきた鯨を発見すると、ハヤという熟練した親方のような漁師が、まず一番モリを投げます。続いて身構えていた別の船からも、一斉にモリが飛んでいきます。モリには綱がついていて、それを鯨に引かせます。やがて力尽きた鯨は、海上に浮き上がってきます。海上では、鯨を突くとノボリで合図します。それを勝山の港の高台で魚見している者が、醍醐家にすぐ知らせ、それを聞きつけた勝山の人たちは、歓喜して浜辺に出迎えるのです。
やがて、鯨を引いた船が、鯨唄を歌いながら、意気揚々と入港して来ます。鯨は、港の鳥居島につながれた後、翌朝、解体専門の出刃組が、解体に取りかかるのです。
ツチクジラの習性
勝山の捕鯨の発展は、ツチクジラの習性にも深く関わっています。ツチクジラは鼻先の細い、イルカのような姿をしていますが、体長は10メートル以上あり、歯鯨類に分類されるれっきとした鯨です。日本近海の北太平洋に生息し、特に房総沖に多く生息していました。彼らは深く潜り、主に深海にいるイカや深海魚を主食とします。回遊路にあたる浮島沖の深みは、まさにツチクジラの餌場でした。
そして、非常に音に敏感である反面、潜ってから息継ぎに浮上する際、ほとんど同じ場所に頭を出すと言われます。つまり、潜ったのを発見したら、そこに待ち伏せすればいいわけです。水軍の末裔たる勝山の漁師たちは、底の浅い船で、音を立てずに、たくみに漕ぎ寄せる技にたけていたのです。
そして、モリの突き技。房州では古くから突きんぼ漁というものがありました。紀州など関西以西の捕鯨が、主に網に追い込む網取り漁になったのに対し、潜行性のツチクジラを捕獲する勝山の捕鯨は、突き取り漁として発展します。これが大きな違いです。捕獲しそこなっても、モリ綱がついて、他村の浜辺に流れ着いた鯨は、「ヨリ鯨」と言って、元締、醍醐新兵衛以外、手をつけてはならないと決められていました。
元締醍醐新兵衛の企業力
醍醐新兵衛が組織化した勝山の捕鯨は、元締、醍醐家の強力な支配の下、いわば就労保証され企業化された下請制度でした。つまり、醍醐新兵衛は、直接、鯨捕りにタッチしません。漁期の間、消耗品の網や漁師一人当たりの一日五合の飯米を支給したうえで、捕れた鯨を「勝負」という独特の方法で買い取るわけです。
この「勝負」とは、鯨の大きさを三等級に分け、一頭の鯨代金が二十両以上を本勝負、二十両未満十両以上を半勝負、十両未満を無勝負として、漁師から買い取る査定、いわゆる報奨金ですが、その代金の内、支給した飯米代は引かれます。つまり、漁期の間、食い扶持は保証されますが、飯米代は貸し付けなわけで、鯨が取れなければ、当然、負債は増えていくわけです。とは言え、出来高払いで返済にこだわらなかった醍醐家の財力と寛大さもうかがえますが、逆に言えば、勝山の漁師たちを繋ぎ止める手段でもあったのです。
いずれにせよ、元締の権力は絶大で、勝山藩へは鯨が捕れるたびに、税金としての鯨運上や御用金を納め、代わりに藩からは、手厚い保護を与えられ、代々新兵衛を名乗った醍醐家のもと、勝山は捕鯨の里として発展していきます。
解体を請け負う出刃組
見事しとめた鯨を港まで引いてくると、まず祝い事が行われます。鯨唄を歌い終わると、クジラの背びれの上部を少しばかり切り取り、神社に捧げ、身を少しばかり切り取って、漁師たちは船中にて生のまま喰らい、これを式として終わります。
次に元締めは、出刃組の者に寸法を測らせ、全体を見届けた上で、価格を査定し、赤肉分配のことを決めます。これがいわゆる「勝負」というものです。勝負の決まった鯨は、出刃組に渡され、陸上からは渡れない湾口南側の断崖下につながれます。解体は翌朝から。そのまま水中で解体します。
解体を請け負う出刃組。彼らは、ふだんは漁業もしくは他の仕事についていますが、鯨が捕れるたびに出動する下請け部隊です。主に田町(勝山地区の田町)の男子でした。彼らの報酬は、赤肉を分配されるだけです。一体につき赤肉十二貫樽三本と決まっていました。
板井ケ谷の弁財天には、出刃組によって奉納された石宮が数十基あります。鯨塚とも呼ばれ、鯨漁が終わるごとに一基づつ建てられたものです。隔絶された場所で、と殺解体を一身に請け負う出刃組であるがゆえに、鯨に対する感謝と供養を誰よりも感じていたのでしょう。そのことが、これらの多くの石宮に現れているのです。
勝山の捕鯨の終焉
解体後、元締に渡されるのは、商品価値の高い厚い皮下脂肪で、これから灯火用燃料やウンカ駆除用の鯨油を絞り出します。醍醐家の敷地には、大きな鯨油加工場があったそうです。
一方、鯨組には赤肉が分配されます。夏場ですので、保存用に天日に干します。これが房総特有の郷土食「鯨のタレ」の誕生です。
さて、年間どれくらい鯨が捕れたかと言うと、文化12年(1815)からの記録ですが、最高頭数は、天保7年(1836)の26頭。だいたい平均して年9頭前後ですが、0という年も2回ありました。特に幕末には減少が目立ちます。これは外国船の出没が関係しています。日本近海が鯨の宝庫だということがわかったからです。当時、外国では、鯨油は高価な資源で、優れた機械油として、マッコウクジラの鯨油は、液状の金とさえ呼ばれました。アメリカは、鯨の好漁場をジャパングラウンドと呼び、頻繁に日本近海にやって来ては、鯨を乱獲しました。実はペリーの黒船来航は、捕鯨船団の補給基地を確保するための開国要求でもあったのです。
このことが、鯨の回遊を減らしました。特に音に敏感なツチクジラは外国船の音におびえ、江戸湾に回遊して来なくなり、勝山の捕鯨は、明治に入り、やがて終息に向かいます。
歌い継がれる鯨唄
「いさなとる安房の浜辺は魚扁に京といふ字の都なるらん」
江戸後期の狂歌師、蜀山人(大田南畝)が、勝山捕鯨の繁栄を詠んだ狂歌です。その句碑が、大黒山の初代醍醐新兵衛定明の墓の隣りに建っています。
勝山の捕鯨が絶えて久しくなりますが、当時のよすがを今に伝えるものも残っています。それが鯨唄です。かつては鯨組の男たちが、鯨を捕らえた喜びを高らかに歌い上げながら、港に凱旋した歌であり、のちに、祝い事の席では、必ずこの鯨唄が歌われたと言います。
現在、地元の鯨唄保存会で伝承され、地域の祭りやイベントなどで披露しています。
「うれしめでたの ヤレ若松よ ナアエヤ ヤレ若松よ ナアエヤ
アア枝も栄える 葉も繁る
サア 突いたかしょ 突いたかしょ つちのこもつは突いたかしょ
今度突いたも勝山組よ ナアエヤ ヤレ勝山組よ ナアエヤ
アア親もとるとる 子もとるよ
サア 突いたかしょ ついたかしょ つちのこもつは突いたかしょ
沖のかもめに ヤレもの問えば ナアエヤ ヤレもの問えば ナアエヤ
アア つちは来る来る 明日も来る
サア 突いたかしょ 突いたかしょ つちのこもつは突いたかしょ
沖のと中に ヤレはや立てて ナアエヤ ヤレはや立てて ナアエヤ
アア 上り下りのつちを待つ
サア 突いたかしょ 突いたかしょ つちのこもつは突いたかしょ
ヤレ押し込んだ 押し込んだ 勝山港に押し込んだ
つちんぼのお金を かますにとりこんで おどらば拍子おもしろや
三国一じゃ つちをとり ご繁盛にすんまいた ヤア…」
房総捕鯨の発祥地として、長い間、鯨とともに歩んできた勝山の人々。捕鯨の伝統は忘れ去られようとしても、この鯨唄は、永く後世に伝えていきたいものです。
醍醐新兵衛定明の墓所(大黒山)