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漱石と子規と鋸山と

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0007977 更新日:2022年8月2日更新
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漱石と子規と鋸山と

学生時代の出会い

鋸山 江戸が明治と改まる一年前の慶応3年(1867)、日本の東西で明治文学界をけん引する二人の男子が誕生しました。江戸牛込(現在の東京都新宿区)に生まれた夏目金之助、後の漱石と、伊予松山(現在の愛媛県松山市)に生まれた正岡処之助、升(のぼる)、後の子規です。学生時代に東京で知り合った二人は、終生変わらぬ深い友情で結ばれていました。明治22年(1889)。互いに22歳。この年の漱石の房総旅行が、二人をさらに親密な関係に導きます。未だ学生の二人が、漱石、子規と号を名乗るのもこの頃で、その文学的資質を二人とも、いわば房総の旅で培うことになるのです。

 四国から上京した正岡子規は、明治17年(1884)、17歳で東京大学予備門に入学しました。夏目漱石も同年で入学しています。東京大学予備門とは、明治10年に設立された東京大学へ入学する者たちの言わば予備機関の学校として誕生しました。当時はまだ整備されていなかった今で言う高等学校のようなもので、東京開成学校、東京英語学校を併せて成立しました。これが明治19年に第一高等中学校と改称、さらに後に第一高等学校となります。俗に旧制一高と呼ばれる学校です。

 漱石と子規は同級生でした。漱石は、成績はトップクラス。子規はと言えば、あまり成績はかんばしくなかったようで、その頃流行してきたベースボールに夢中。ポジションはキャッチャーでした。子規は升(のぼる)と言う名から、「野球」と日本語訳されたことにちなみ、自分のことを「野球(の・ボール)」という号にしていたほどです。とにかく子規はいろいろなペンネームの持ち主で、「漱石」も実は子規のペンネームの一つだったとか。

 そんな二人は、入学から四年、お互い近寄り難かったのか、疎遠な関係だったと言います。それが、明治22年1月、ある事をきっかけに意気投合、一気に親密になっていきます。それは共通の趣味。二人を当時熱狂させていたのは、寄席(よせ)でした。二人とも学校をさぼったり、借金したりしてまで演芸場に通うほどの大の寄席好きだったのです。

互いに認め合う仲

 お互いに文学的な素養も認め、一気に友人となっていった二人ですが、悲劇はすぐに訪れます。この年の5月、子規は喀血します。肺結核でした。激しく咳き込むように鳴くホトトギスにちなみ、結核はホトトギスとも呼ばれていました。実は漢字で「子規」はホトトギスの事です。彼はこの時以来、号を子規と名乗るようになったのです。

 この頃、子規が手がけた文集「七草集(ななくさしゅう)」が友人たちの間で回覧されています。これは前年の夏、子規が向島滞在中に書き始めた漢詩、和歌、俳句、小説など多ジャンルにわたる手書きの文集で、翌年5月頃完成したと言います。

 漱石のもとにも回ってきたこの「七草集」に、漱石は漢文で評を書き加えて返しました。この時、初めて「漱石」という号を使用しています。中国の故事「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」から。石を枕にし、流れに漱(くちすす)ぐというべきを、逆に言った事を指摘され、いや私は石で漱ぎ、流れを枕にするのだと言い張る、負け惜しみな強情な人のことを意味します。自分にぴったりだと、子規のペンネームのレパートリーから譲り受けたようです。奇しくも二人は、同じ時期に、生涯の名として知られる漱石、子規という号を名乗るわけです。

 それよりも子規を驚かせたのは、その漱石の漢詩文の優れた才でした。さらにその八月、漱石は、「七草集」に触発され、次は自分が、漢詩文の紀行文集で、子規をもっと驚かせてやろうと考えます。それが漱石の房総旅行、その紀行文集「木屑録(ぼくせつろく)」の誕生となるのです。

漱石、保田を訪れる

 明治22年(1889)8月7日、夏目金之助(漱石)は、第一高等中学の学友ら四人と共に房州を訪れました。学生時代の夏休みを謳歌しようと気の知れた仲間との旅行です。当時はまだ房州へは鉄道がなく、東京霊岸島から汽船に乗りました。旅行後に彼が記した紀行漢詩文集「木屑録」には、この旅の様子が漱石流の洒脱な文筆でよく表現されています。漢文なので、わかりやすく読み下して、いくつか紹介してみましょう。

 まず霊岸島からの房州行の汽船の中で、漱石の失敗談が一つあります。この日は風が激しく、船客らは皆怖がり、立ち上がることもできなかったようです。その中で若い娘が三人、平然と甲板上に座り談笑しています。それを見た漱石、大の男がびびってたんじゃ、若い娘に笑われると、意を決し、手すりに寄りかかりながら正座します。そして、よせばいいのに、荒れ狂う波の様子を見ようと、よろめきながら立ち上がったその時に、荒波に船は大きく傾き、足をすくわれ、吹き上がった風に帽子を吹き飛ばされてしまいます。海に落ちた帽子は荒れ狂う波間にただようばかり。見ていた船客らは手をたたいて大爆笑。例の三人娘も声を立てて笑っています。漱石は実に恥ずかしい思いをしたと書いています。

 保田(千葉県鋸南町保田)で汽船を降りた漱石らは、保田で十日間ほどを過ごしたようです。宿は定かではありませんが、「鋸南町史」によると、旅館「松音楼(まつねろう)」の前身である「ますや」と言う宿かも知れません。本郷浜にあったますやは、古くからの保田の旅宿だったようで、この2年前に保田に来た徳富蘆花が泊まり、小説に名を出したのは「ますや」。そして江戸時代後期には小林一茶も「七番日記」に保田での宿を「升(ます)ヤ伝七」と記しています。

漱石、海水浴を楽しむ

 漱石一行は、昼は海水浴や鋸山散策、夜は酒盛り、花札遊びなど、青春を謳歌したようです。まだ海水浴という夏の定番も浸透していない時代、漱石らは保田の海ではしゃぎました。「木屑録」からその時の様子がわかります。

 「吾輩は房州へ来てから、一日に少なくて二三度、多くて五六度、海水浴をした。わざと飛び跳ね、子供のようにはしゃぎ、腹をすかせた。食事をたくさんとれるようにしたかったからだ。海水浴に飽きたら、熱い焼けた砂の上に横たわった。砂の熱が腹に伝わり、気分は実に快適である。数日たつと、髪がしだいに赤茶けて、顔や皮膚が黄ばんできた。さらに十日ほど後には、髪はより赤く、肌は日焼けで真っ黒になった。その自分の姿を鏡で見て茫然自失してしまった。」

 このように日焼けに驚く漱石が書かれています。漱石は若い頃から胃が悪かったので、この時も食欲増進を図ったり、腹部の温熱療法のようなことを試みたりと、なかなか健康に気を使っている様子も見てとれます。

この漱石来遊の海水浴を記念して、保田海岸には「房州海水浴発祥地の碑」が、昭和61年に建てられました。

漱石、鋸山に登る

 「房総の地勢の三分の二は山である。それほど高くはないが、皆鋭く険しく天を突き、岩石質で、表面に覆うのはわずかな土ゆえ、大きな木は見当たらず。中でも安房と上総を分けて、東北へうねうねと続く一連の峰々が最も高く鋭く切り立ち、澄み切った青空に向かい、あたかも鋸の刃がずらりと並んでいるかのようだ。この山を名付けて鋸山(のこぎりやま)と呼ぶ」

 夏目漱石が「木屑禄」に記した鋸山の第一印象です。明治22年8月、保田を訪れた学生時代の漱石一行は、ついに鋸山へ登ります。

「吾輩は房州へ遊びに来てから今日まで、朝に夕に鋸山を遠望していたが、これほど高く険しい山だとは知らなかった」

 奈良時代に聖武天皇の勅願で建てられたと伝わる日本寺。江戸時代には高雅愚伝(こうがぐでん)禅師の発願による千体以上の羅漢石仏が造立され、世に羅漢寺として名が知られ、参詣客でにぎわったこの山も、明治になり、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の波で荒廃の危機に立たされていました。しかしかつては交通の難所だった突端の明鐘岬には、公共事業でようやく隧道が完成し、楽な往来が可能になりました。漱石がやって来たのは、まさにそんな時期です。

 漱石は仲間と案内の者と共に谷川に沿って登り、ようやく山門にたどり着きます。壁や瓦は崩れ落ち、落書きだらけです。心字池を過ぎ、石段を数段上ると、平地に出ました。木の生い茂った中に小さな家が二つほど建っています。茅葺の軒や竹の格子窓は、さながら農家のよう。聞けば山僧の住居だと言います。日は高いのにひっそり静まり返っています。維新の廃仏毀釈で荒れ果ててしまった様子を聞き、漱石はかつての寺の繁栄を想像しては、しばし嘆き悲しみました。

千五百羅漢 漱石、羅漢像に会う

 ここを過ぎると道は険しくなります。岩をよじ登り、つたをつかんで登っていくと、はるか頭上に石仏が雑然と並んでいるのが見えます。走って近づこうとしても、峰に沿って道も回り、たちまち見失ってしまいます。そんなことを繰り返して、ようやく石仏のところへ着きました。

 「どれも実に様々な姿で、表情にも富み、一つとして同じものがない。石仏を彫った石工の心づかいが知れる。配置についても、ただ一カ所に集めたのではない。最初に二百体ほどの石仏を発見し、我らは羅漢のすばらしさに感嘆したが、すぐその岩角を回ると、さらに百体ほどの石仏が並んでいる。頭上を見上げれば、巨大な岩が群がり、今にも崩れ落ちそうだ。恐ろしくて目を転じると、岩の上にもまた数十体の石仏。また狭い道を進んで尽きたところに、洞窟が広々と口を開け、羅漢がぎっしりと並んでいる。我々は歩むに従って異なった景観を見せられ、優れた羅漢像たちが予想外の場所に現れるのを見て喜んだ」。

 漱石が鋸山の羅漢配置の景観を絶賛している様子が、この文章からよくわかります。

 昼頃には山頂にたどり着き、群山連なる眼下の風景を見た時、漱石の心の中で何かがはじけました。当時、何事も成就していない未熟な自分を責めていた漱石、得意の漢詩文での創作意欲を満たしてくれるものを切望していた漱石は、この鋸山の登山により、もやもやした人生の視界も開けたのではないでしょうか。後の文豪夏目漱石の誕生に大きなきっかけを与えたのが、鋸山だったと言っても過言ではないかも知れません。

漱石、自慢する

 漱石は房総の旅から帰ると、すぐに得意の漢文で紀行文を書き上げました。子規に見せて自慢するためです。あいつはどんな顔をして感想を言うだろうか。漱石は興味津々でした。これが「木屑録(ぼくせつろく)」です。

 案の定、子規は「木屑録」を読んで、その格調高い漢文、漱石の文学的才能に、強い衝撃を受けます。漱石が英語に堪能なことは子規も知っていましたが、まさか漢詩の才も尋常でないことを思い知らされたのです。「まったく君は千万人中の一人の逸材だ」などと言ってきました。子規の「七草集」、漱石の「木屑録」。他人に見せることを意識して書き上げた二人の処女作と言えるこの二作品で、二人は認め合い急接近。互いに文学の道を意識し始めることになります。

 そして、「木屑録」に触発され、房総に魅了された子規も、その2年後、房総の旅に出ることになるのです。

 明治23年(1890)9月、漱石は東京帝国大学英文科に入学。子規は同じく哲学科に入学しました。しかし翌24年の2月に哲学科から国文科へ転学しています。そして、3月、子規はついに念願の房総への一人旅へと旅立ちます。

 

子規、旅に出る

 明治24年(1891)3月25日、子規は東京本郷の常盤会(ときわかい)寄宿舎を出発しました。頼みはおのれの二本の足のみ。まずは以前から行きたかった成田山へ向かいます。漱石の場合は汽船で保田まで一直線、その後那古から外房の小湊を経て、房総東海岸をぐるり回って東京へ帰っていますが、子規は陸路、成田から千葉に出て、内陸部の大多喜を経て小湊から鴨川、内房に回って保田、そして保田から汽船で東京へ戻るという逆ルートです。

 まず市川で菅笠を買い、船橋から佐倉へ。野には菜の花に麦、ひばりがさえずり、アゲハ蝶も前になり後になりついてきます。子規はこの旅の紀行文集として「かくれみの」をまとめています。その中の「隠蓑日記(かくれみのにっき)」は、もちろん漱石に対抗して挑戦した漢文の日記です。これを読んでみると、子規もなかなか茶目っ気があります。これらをもとに子規の旅を追ってみましょう。

 子規のいでたちは、草鞋(わらじ)に脚絆(きゃはんはん)、菅笠、振り分け荷物、途中で竹やぶから失敬した竹杖(たけづえ)。明治24年としては、ちょっと一昔前の道中スタイルですが、子規はこれがたいそうお気に入りだったようで、自ら「広重流の道中姿」と言って気取っていました。道行けば、道端から「おい、ありゃ西郷隆盛じゃないか」と言っているのが聞こえたそうです。

 成田山詣でを済ませ、馬渡を経て、27日正午頃、子規は千葉の町中へ入ってきました。写真館を見つけた子規は、迷わず入ります。このお気に入りの道中姿を写真に収めるためです。その写真館は豊田写真館。現在の千葉県庁付近、市場町にありました。撮影したのは千葉の写真師の草分け、豊田尚一(とよだなおいち)。この時の写真は子規がその後も大切に保存し、現在まで残されています。

 さて写真館を出た子規は、向かいのうなぎ屋で昼食をとっています。その店は、現在も同じ場所にあるうなぎの「安田」です。

子規、うなぎを食す

 子規はうなぎが大好物でした。後の話ですが、漱石が松山中学校の英語教師に赴任した時、その下宿に転がり込んで、毎日と言っていいほど、かってにお昼にうなぎを出前しては食べていました。そして東京へ戻る際には、漱石に、店のつけをよろしく。と言って出て行ったのです。

 こんな話もあります。大阪ではうなぎのことをマムシと言う。聞くのも嫌な名前だ。もし僕が大阪市長に当選したら、真っ先にこのマムシという言葉を禁止する。と常々言っていました。

 さて、千葉で旅姿の記念写真を撮った後、匂いに誘われてか、目の前のうなぎ屋「安田」へ入って、うなぎ飯を注文。さらにシャモ料理も追加して平らげています。子規は大食漢でも有名でした。子規が訪れたこの鰻屋「安田」と豊田写真館を探し当てたのが、漱石子規研究家の関宏夫さんです。長年、二人の房総の足跡を調査研究なされた成果で、当時の千葉市の絵図や資料などから、子規の足跡を突き止めたのです。

 食べ終えて店を出た子規、しばらく歩いて、店に竹杖を忘れたことに気づき、引き返しています。好物に満足して心うわの空だったのでしょうか。それから寒川、浜野を経て房総半島内陸部の長柄山(ながらやま)(千葉県長柄町)に向かいます。

子規、おかわり四杯

 長柄山で子規は大黒屋(だいこくや)という宿に泊まっています。宿の食事はけっこう当たり外れがありましたが、この大黒屋の夕食は大当たりでした。子規は旅の手記にこう書いています。

 「宿屋飯極(きわ)メテ軟(やわらか)、菜(さい)極メテ美、宿屋ノ大深茶碗ニテ喫(きっ)スルコト四杯、今迄(いままで)第一也(なり)。菜ハお定り味噌汁ハぬきにして、平(ひら)とせくろのさしみとはりはり也。うまい事うまい事」

 平は平椀のことで野菜の煮つけでしょう。そしてセグロの刺身と大根のはりはり漬け。セグロは背黒いわし、俗にヘシコと言われます。生まれて初めて食べたセグロの刺身のうまさに、子規は大深茶碗に四杯もご飯をおかわりしています。「今日は昼飯といい、晩飯といい過分(かぶん)也」と大満足だったようです。大黒屋は大正頃には廃業したようです。

 翌28日の朝、宿を出立した子規は、昨日の大食で、案の定、おなかを壊したようで、道すがら菜の花畑に駆け込み、用をたしています。「かくれみの句集」に、この時詠んだ句が入っています。「菜の花のかおりめでたき野糞哉」「菜の花の露ひいやりと尻をうつ」

 長南へ入る頃には雨が降ってきました。子規は宿場で蓑(みの)を買います。この蓑は、以後、子規にとってこの旅の象徴となり、生涯の心の支えとなります。

 この旅の紀行文集「かくれみの」の題にもなったこの蓑と笠は、その後、病床の子規の部屋の柱に常にかけられていました。房総の旅で新たな俳諧の道に立志した子規。三十四歳で亡くなるまで、最後は寝返りさえ打てない壮絶な闘病生活の病床にあって、文学への情熱を保ちえたのは、ひとえに、人生の転機となったこの青春時代の房総の旅の記憶、それを思い起こさせてくれる蓑笠を、いつも視界に入れておきたかったのではないでしょうか。

 蓑を買った長南で詠んだ子規の句です。「春雨のわれ蓑着たり笠着たり」

子規、鋸山に登る

 「鶯(うぐいす)や谷をいづれば誕生寺」。子規は大多喜から小湊に出て誕生寺を参詣した後、外房海岸を南下。鴨川、千倉平磯、白浜野島崎を経て内房の館山へ抜けました。こんな句も詠んでいます。「房州の沖を過行く鯨(くじら)哉(かな)」。子規はこの海を見ながらの旅路で、どこかで鯨を見たのでしょう。そして4月1日、子規は保田に到着しました。羅漢像

 保田で一泊した子規は、翌日いよいよ鋸山へ登ります。漱石が「木屑録」で表現した鋸山の威容、その神秘的なイメージを、子規は心に持ち続けてのこの旅だったに違いありません。「隠蓑日記」には保田の宿で、この旅で初めて鏡に自分の顔を映してみた感想を書いています。昨日まで少々疲れぎみだったが、やつれて青黒い顔はまるで古色の銅仏のようで、少しばかり気をよくして意を強くしたと書いています。同じく保田の宿で鏡に映る自分の日焼け顔にびっくりして茫然自失した漱石とはやはり違うところでしょうか。迫りくる病魔をおしての、この一人旅の子規の強い決意、待望の鋸山を目の前にして高まる期待感が感じられます。

 「二日、鋸山の羅漢寺(日本寺)から山頂をめざした。石仏幾百、あるいは群居(ぐんきょ)し、あるいは孤立する。ゆったり座って怒る者、崩れ落ちそうになりながら笑う者、まさに俗世を離れた仙気(せんき)が心をうつ。石仏のかたわらでしばし休息の後、山頂を目指した。武蔵、相模、房総、皆すぐ目のあたりに見渡せる。俗世のわずらわしさなどどこにもない。山は石材として盛んに石を切り出している。この分じゃ百年後には鋸山は地図から無くなってしまうのではないか」と、当時盛んだった石切に驚いて、そんなに切り出したら、この幽境の山が無くなってしまうと心配さえしています。

 下山して保田から汽船に乗って、子規は東京へ帰りました。鋸山で仙人気分を満喫した子規でしたが、船中で一気に俗世へ引き戻され、「ついに数日の仙遊も終了だ」と嘆いています。

 東京の寄宿舎に戻った子規に、すぐさま仲間たちが群がり、房州はどうだったか聞いてきました。すると子規は得意げにこう答えています。

 「いたって意気軒昂(いきけんこう)。蓑笠かぶって春を尋ね、蝶といっしょに草を枕にし、総山を横切って海に出て、漁師らと交わり、安宿や食い難き食い物もあったが、房州の住民は皆朴訥(ぼくとつ)でいい人ばかり。山は深く海は広い。ああ楽境かな、仙地かな」。で、房州の印象をこう表現しました。

 「山はいがいが海はどんどん 菜の花は黄に麦青し すみれたんぽぽつくづくし」

 いがいが切り立つ鋸山に、波音ひびく外房の海、そして咲き乱れる花々。房州を簡潔に表現した、けだし子規の名文句です。

子規の最後

 漱石と子規。深い友情で結ばれた二人の、文学への道の出発点が、青春時代の房総の旅であり、その精神形成に大きな影響を与えたのが「鋸山」だったということは、郷土の誇りとして、もっと多くの方々に知ってもらいたいと思います。

 房総の旅から11年後、明治35年(1902)9月19日、壮絶な闘病生活の末、子規は根岸の自宅でこの世を去ります。享年34歳。この時、漱石はロンドンに留学中で、子規の死に目には立ち会えませんでした。子規は最後まで漱石と出会ったあの青春時代を思い浮かべ、ロンドンからの漱石の手紙を心待ちにしていたそうです。

 子規の亡くなったその部屋の柱には、まるで彼を見守るように、房総の旅で求めた蓑笠が常に掛けられていました。

漱石子規鋸山探勝碑 参考文献

 「夏目漱石の房総旅行」 斉藤均 1992年

 「かくれみの街道をゆく」 関宏夫 2002年

 「漱石の夏休み帳」 関宏夫 2009年

 「手紙 ロンドンの焼芋」 関宏夫 2013年

 

 漱石子規鋸山探勝碑


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