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源頼朝と東国武士団

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0005416 更新日:2021年3月20日更新
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源頼朝上陸地 源頼朝上陸地(鋸南町竜島)

源頼朝の強運

 平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を確立した源頼朝は、その道のりで何度か絶体絶命のピンチにおちいっています。しかし、そのたびに信じられないような強運で乗り越えています。まるで天が頼朝に味方しているかのようにです。

 平治元年(一一五九)平治の乱で、頼朝の父、源義朝は平清盛に敗れ、都落ちしました。この時十三歳で初陣した頼朝は、父とともに東国へ落ちる途中、吹雪と疲労のため一人はぐれてしまいます。しかし、これが結果的には幸いしました。尾張国(愛知県)までたどり着いた義朝は、そこで頼りとした長田忠致(おさだただむね)の裏切りで湯殿でだまし討ちされ、殺されてしまうのです。
 一方頼朝は、平家方に捕えられ、都に送られました。源氏の嫡流として待っているのは、斬首の運命だったでしょう。ところが、またしても天は頼朝に味方します。平清盛の継母、池禅尼の頼朝の命乞いです。幼くして亡くなった息子に、頼朝が似ているという理由でした。清盛は、継母の願いを拒みきれず、頼朝の命だけは助け、伊豆への流罪とします。
 伊豆の蛭ケ小島(伊豆の国市)での流人生活は二十年にも及びました。その間、監視役だった地元の豪族北条時政の娘、政子と結ばれたことも、結果的には北条氏を味方にすることが出来たわけです。
 治承四年(一一八〇)都で反平家の狼煙が上がり、頼朝もついに挙兵します。しかしこれは無謀でした。周りはほとんど平家方の勢力。頼朝に従うのは相模、伊豆の小豪族たちだけで、いわば追い詰められての挙兵だったと思います。
 安の定、石橋山の戦いで、相模の平家方を大動員した大庭景親軍に散々に打ち負かされ、風雨の中、散り散りに逃げ延びます。平家方の厳しい探索をさけ、山中の伏し木の洞に逃げ隠れた頼朝ですが、その中を覗きこんだ平家方の武将がいます。梶原景時です。まさに万事休す。ところが景時は、見て見ぬふりをして見逃しました。景時には、この源氏の大将にかけてみようという心があったのでしょうか。のちに景時は頼朝のもとに参じて、有力な御家人となります。これが頼朝最大の強運とも言えるエピソードです。
 真鶴崎から小船で脱出した頼朝は、安房に向い、上陸したのが猟島(鋸南町竜島)です。その後、東国の武士団を味方にし、勢力を挽回した頼朝は、平家を滅ぼし、鎌倉に武家の天下を築くことになります。

源氏ゆかりの東国

 石橋山の敗戦により、身一つで命からがら安房へ渡ってから、わずか一ヶ月もたたないうちに、東国武士団を率いる数万の大軍団になって鎌倉入りした源頼朝。強運とも言える頼朝の挙兵と坂東武者の結束、鎌倉幕府の誕生は、実はいろいろな因縁、思惑が入り混じっているのです。
 もともと東国は源氏が基盤とした土地で、頼朝の父、義朝は鎌倉に館を構え、東国の豪族たちを勢力下に置こうと奮闘しました。大庭御厨(おおばのみくりや)(神奈川県藤沢市)の土地をめぐって、かなり悪どい横領をして、大庭氏の恨みを買っています。この時、義朝に加担したのが相模の三浦党、中村党でした。
 この頃の地方豪族たちは土地が命です。自ら開墾した土地を守るために武装化したのが武士の起りとも言われ、彼らは自分たちの土地を守ってくれる武家の棟梁を待ち望んでいました。それが源氏だったのです。相模、房総の豪族たちは、その恩から義朝に従い、保元、平治の乱を戦いました。しかし、平治の乱で源氏が敗れると、東国も平家方の勢力で抑えられるようになります。

因果はめぐる石橋山

 さて、伊豆に流された頼朝は、十代、二十代と青春時代を流人として過ごしたことになります。流人と言ってもそれほど厳しい監視ではなく、地元の若者と狩りを楽しんだり、女性関係も盛んだったようです。
 頼朝の配所の近くに伊東祐親(いとうすけちか)という豪族がいました。最初の頼朝の監視役だったと思われ、頼朝を館に招いたり、目をかけていましたが、京都で大番役を勤め、 しばらく留守にして館に帰ってみると、娘が頼朝の子を産んでいました。平家の手前、祐親は激しく怒り、頼朝を討とうとします。
 あわてた頼朝は伊豆山権現に逃げ込み、さらに北条時政に助けを求めます。ところが性懲りもなく今度は北条の娘に目をつけます。目当ては妹の方でしたが、恋文を託した家来の安達盛長が、間違ってか計画的か、姉の政子に渡してしまったとも言われています。政子はこの時二十一歳。当時としては行き遅れの彼女の心に火がつきました。
 これを知った時政は、政子を平家の伊豆目代(もくだい)、山木兼隆に嫁がせようとしたそうですが、政子は頼朝のもとへ走りました。時政はやむなく頼朝を婿として、北条館へ迎えました。
 治承四年(1180)、頼朝三十四歳。諸国の源氏の挙兵をうながす以仁王(もちひとおう)の令旨が届き、それが平家に知られ、頼朝の立場もあやうくなりました。平家は諸国の源氏追討を命じることになります。まさに追い詰められた頼朝の決起に、北条氏の他、土肥、土屋、岡崎ら中村党、三浦党が味方をしてくれました。
 まず山木館を奇襲し、山木兼隆を討ちました。しかし三浦軍と合流すべく東へ進んだ頼朝軍の行く手には、義朝以来、宿縁のある相模の豪族、大庭景親軍三千が待ち構えています。背後から、これまた頼朝に恨みを持つ伊東祐親軍三百が追って来ました。挟み撃ちされた頼朝軍は三百。さらに悪いことに、大嵐で三浦軍の到着が遅れました。運命の石橋山の戦いが幕を開けます。


海の豪族、三浦氏

 八月二十三日、小田原近くの石橋山で、闇夜の風雨の中、十倍もの大庭、伊東軍に挟撃され、頼朝軍は壊滅しました。北条時政らとも離れ離れになり、頼朝は地元の地理に詳しい土肥実平の案内で、土肥山中(湯河原町周辺)を逃げ回ります。伏し木の洞に隠れた頼朝を、大庭方の梶原景時が見つけたのはこの時です。景時はあえて頼朝を見過ごし助けました。景時のようにひそかに源氏に心を寄せる者もいたことは事実です。頼朝は、土肥実平を供として真鶴崎へ落ち延び、小船で脱出しました。目指すは安房国です。なぜ安房なのか。その鍵を握るのは三浦氏です。
 三浦半島一帯に勢力を誇る三浦氏は、対岸の内房も勢力下に治め、浦賀水道の制海権を握っていました。当主は三浦義澄ですが、高齢の父義明はいまだ健在。源氏恩顧の武将で、義明の娘は源義朝の妻となり、長男の悪源太義平(頼朝の兄)を産んでいます。
 石橋山の戦いに間に合わなかった三浦軍は衣笠城に戻りますが、武蔵秩父党の畠山重忠、河越重頼、江戸重長に攻められ落城。義澄、和田義盛ら三浦一族は、城を落ち延びますが、義明だけは残って、城を枕に討ち死にしました。

 海上に出た義澄らは、運よく北条時政らの船と行き合います。この時点で頼朝の安否はいまだ不明です。一行は内房の海岸に上陸、頼朝を待つことにしました。
 おそらく、もしもの場合、安房で落ち合うことを示し合わせていたのかも知れません。房総は最も源氏色の濃い土地。三浦氏の勢力下である現在の鋸南町周辺が最も安全な場所なのです。つまり頼朝が竜島に上陸したのは、決して偶然ではなかったのです。
 二十九日、頼朝の乗った船が現れました。時政は山上に白旗を立て、目印としました。ここが竜島の旗立山です。竜島に上陸した頼朝は、神明社に落ち着き、今後の方策を練りました。安房には安西、丸、神余氏、上総には上総介広常、下総には千葉介常胤など源氏恩顧の豪族らがいます。中でも房総最大の兵力として、頼朝が期待したのが上総介広常です。広常の館(一宮町付近)に向かうため、頼朝一行は竜島から外房へと出発しました。
 しかし、三浦義澄には一つ懸念がありました。安房にはもう一勢力、現在の鴨川市周辺に勢力を誇った長狭氏がいます。三浦氏と長狭氏は、実は因縁の間がらでした。両者は安房北部をかけ争いを繰り返し、三浦義明の長男(義澄の兄)杉本義宗は、長狭へ侵攻した際、長狭常伴の矢で負傷、それがもとで亡くなっています。義宗の長男が和田義盛です。平家方の長狭常伴は必ず襲って来ると踏んだ三浦党。九月三日、頼朝はその鴨川で一泊することになりました。果たして頼朝の運命は。

安房の豪族、安西氏と丸氏

 鴨川での頼朝の宿所を長狭常伴軍が夜襲をかけてきました。しかし予期していた三浦勢が、待ち構えてこれを撃破。長狭氏は滅びました。これが鴨川の一戦場です。
 翌日、安房の豪族、安西景益(あんざいかげます)が、頼朝のもとへ参着しました。安西氏もまた三浦系です。三浦為景が安房国安西郡に移り住み、安西氏を名乗ったのが始まりと言われ、景益は三浦義澄の娘を妻としていました。館は安房国府に近い平松城(南房総市池之内)と言われます。安西氏と源氏の関わりも深く、景益の父常景は、源義朝に従って保元の乱を戦い、母は頼朝の乳母、つまり頼朝と景益は乳兄弟、幼なじみだったと言われます。
 これからも長狭氏のような輩が出るとも限らないので、ひとまず安全な我が館へ。という景益の進言に、頼朝は安西館へ向かいました。そして上総介広常のもとには和田義盛が、千葉介常胤のもとへは安達盛長が使者として派遣されました。頼朝は、安西館で各地の豪族に書状を書いたり、付近の神社仏閣に戦勝祈願をして過ごし、使者の帰りを待ちます。

 現在の南房総市丸山地区に丸御厨(まるのみくりや)という土地がありました。御厨とは伊勢神宮に寄進された土地のことを言います。取れた作物を伊勢神宮に納める代わりに、その土地は誰からも侵されない不入の権利を得ることができるというものです。丸御厨は、実は源氏が東国で初めて与えられた土地で、ここを義朝が息子頼朝の昇進を願って伊勢に寄進したと言われる頼朝ゆかりの土地です。その丸御厨の管理を任されていたのが、地元の豪族、丸氏でした。丸氏もまた義朝に従い保元の乱を戦っています。
 九月十一日、頼朝は丸信俊(まるのぶとし)の案内で、ここを感慨深く見廻り、父を思い涙したと言われます。その他安房南部の神余(かなまり)氏らも頼朝のもとへ参じました。このように安房国は、どん底の頼朝のその後の驚異的なスピードの勢力挽回に、重要な役割を担ったのです。やがて戻ってきた使者によると、千葉介常胤は即座に味方を約束しましたが、上総介広常は即答を避けたと言われます。

 十三日、頼朝は安西館を出立、上総から下総へ向かって進軍しました。現在の三芳から富山へ向かう山間の道沿いには、頼朝が通ったと思われる地名の伝説が残っています。五十騎橋、百不取(ひゃくとらず)、千騎森。進軍する頼朝のもとに軍勢が集まり、しだいにふくれあがっていく様子を表しています。
 上総を通り抜け、下総で千葉氏の出迎えを受け、隅田川べりまで来た時、上総介広常がようやく大軍を引き連れ到着します。『吾妻鏡』では、遅れてきた広常を頼朝が一喝。その威厳を見て、初めて心から頼朝に臣従したとありますが、はたして広常の真意はどうだったのでしょうか。

房総の雄、上総介広常

 房総一の大兵力を持つ上総介広常は、もともと源氏とは深いつながりがありました。頼朝の父義朝は、青年期、上総曹司(かずさのそうし)と呼ばれていました。上総の若殿という意味です。つまり義朝は上総で育ったと考えられます。上総国畔蒜庄(あびるのしょう)(君津市)は曽祖父の源頼義が、前九年の役の功により朝廷から賜った土地で、安房国丸御厨、武蔵国大河土御厨とともに源氏相伝の家領でした。義朝は上総氏の庇護のもと育ったのかも知れません。
 後に鎌倉に移った義朝のもと、青年期の広常も鎌倉に館を持ち、義朝の家の子(家臣)となり、保元、平治の乱を戦いました。平治の乱では義朝の長男義平十七騎の一騎に数えられています。
 平治の乱で源氏が敗れ、広常は上総に戻りますが、家督は兄常茂が継ぎ、平家になびいていました。その常茂が大番役で京に出向いている最中に、頼朝の挙兵があったのです。広常はこの機に乗じて常茂党を掃討し、上総国をまとめるのに手間取って、頼朝のもとへ遅参したというのが、どうやら真相ではないかと考えられています。

頼朝の進軍を止めた武蔵国

 九月十七日、下総国府まで破竹の勢いで進軍した頼朝軍ですが、ここでその足並みがピタリと止まります。隅田川を渡れば武蔵国、その武蔵へうかつに進めない理由がありました。武蔵の豪族、秩父一族が頼朝に敵対姿勢を見せていたからです。頼朝は鷺沼に留まり、秩父一族の攻略に十日以上も費やすことになります。
 秩父盆地(埼玉県秩父市)から興った秩父氏は、畠山氏、河越氏、江戸氏、豊島氏、葛西氏など諸家に枝別れし結束を強くしていました。もともと源氏との関わりもありましたが、平家の世になり、忠実な平家の家人として、武蔵国に勢力を拡大しました。
 石橋山の戦いの際は平家に属し、三浦氏の衣笠城を落としたのが彼らでしたので、頼朝が予想外にも勢力を挽回して房総を北上してくると、双方引くに引かれぬ立場となってしまいました。
 頼朝の前にまず立ちはだかったのが、江戸館(後の江戸城)にいた江戸重長です。頼朝は重長説得を試みますが、頑として受け入れない重長に、味方になった葛西清重をして暗殺計画さえ命じます。これは実行されませんでしたが、ようやく十月四日、江戸重長、畠山重忠、河越重頼らは頼朝のもとへ参陣することになります。

鎌倉幕府成立の真相

 東国武士団に支えられ、十月六日、鎌倉入りを果たした頼朝は、富士川の戦いで平家に勝利し、そのまま京に攻め入ろうとしますが、上総、千葉、三浦氏らの進言で、それより、まず東国の平家方、常陸の佐竹氏征伐を実行します。彼らにとって、いわば京の中央のことなどどうでもよかったのです。この機会に、所領をめぐり代々の宿敵である相手を大義をもって討つことが出来、自分の利益を最大限に引き出せる頼朝という源氏の輿を担ぎ出したのに他ありません。
 頼朝も、それにうまく乗って東国武士団を掌握し、鎌倉に武家の利益を守る、言わば独立国家を立てようとしました。それが鎌倉幕府だったのです。ですから御家人となった彼ら同士の中でも、邪魔者は、すぐに消される運命にありました。最大の軍事力で、頼朝旗揚げに功労した上総介広常も、その自負からか、不遜なふるまいが目立っていたと言われます。
 寿永二年(一一八三)、頼朝に東国の行政権をまかせることが、朝廷から認められました。名実ともに東国武士が頼朝の支配下になったわけです。頼朝は、もはや目の上のこぶでしかなくなった広常の暗殺を決意します。命を受けた梶原景時は、何喰わぬ顔で鎌倉の広常の館を訪れ、囲碁を打っている最中に、ふいに短刀で広常の胸を刺しました。

 しかし、これは序章に過ぎませんでした。幕府成立の功労者たちは、その後、次々と悲劇の運命が待っていたのです。

陰謀渦巻く鎌倉幕府

 日本の歴史上、鎌倉幕府ほど暗殺、陰謀の繰り返された政権はありません。もともと源氏一族が親兄弟、血で血を洗う骨肉の争いをしてきた家系です。平家追討の功労者、源義経が、兄頼朝に追放され、攻め滅ぼされたのは有名ですが、もう一人の弟、範頼さえ、後に謀反の疑いで伊豆修善寺に幽閉され、梶原景時に攻められて亡くなっています。
 石橋山の戦いで頼朝の命を救った梶原景時は、東国武士にまれな文武両方に秀でた人物で、頼朝に重用され、腹心として、時には御家人粛清の実行に手を染めることもありました。それが頼朝への讒言者と映り、他の御家人に恨まれる立場になっていったことが悲劇でした。頼朝の死後、御家人六十六名による景時排斥の連判状が、二代将軍頼家に出されました。景時一族は鎌倉から追放され。京へ向かう途中、駿河国清見関で追手と戦い、息子景季(かげすえ)とともに討たれました。
 平家追討に活躍した畠山重忠は、頼朝挙兵時には平家方として衣笠城を落とし、三浦氏にとっては仇です。頼朝に言い含められ和解はしましたが、しこりは当然残ったでしょう。
 常に先陣を勤め忠勇無双、鎌倉武士の誉れと讃えられた重忠も、頼朝の死後、息子の重保(しげやす)が、ささいな口論がもとで、謀反の疑いをかけられて斬首。北条時政から「鎌倉に異変。至急参上されたし」という偽りの知らせで、自領の菅谷館(埼玉県嵐山町)から誘い出された重忠は、武蔵国二俣川で待ち伏せの討伐軍に囲まれ、壮絶な討ち死にを遂げました。

北条氏独裁への道

 北条時政は、将軍の外祖父として意に従わなくなった頼家を廃し、三代将軍に実朝を置き、頼家の舅先の比企氏を滅ぼしました。時政はさらに権力を増し、野望を抱くようになります。後妻の牧の方の娘婿、平賀朝雅を将軍につけようとしたのです。しかしこれは、政子と北条義時の反対にあい、時政は実の娘と息子のクーデターにより失脚。強制的に伊豆に出家隠居させられてしまいました。
 幕府の実権を握った北条義時は、さらに北条氏独裁の道を切り開いていきます。まず標的となったのが、幕府草創以来の功臣、和田義盛です。義盛は三浦氏嫡流ですが、三浦郡和田郷に移り和田氏を名乗ったもので、三浦本家は叔父の義澄、その子義村と継いでいました。北条義時の執拗な挑発に、無骨な義盛はついに挙兵します。和田と三浦が力を合わせれば、北条を潰せると踏んだのです。
 ところが、義盛を待っていたのは、三浦義村の裏切りでした。三浦本家をしのぎ、侍所別当として御家人の頂点に立つ義盛に、義村の屈折した気持ちはわからなかったのかも知れません。いや義村はかなりの策士だったとも言われ、後の実朝暗殺の黒幕との説もあります。
 和田合戦と言われるこの戦いで、義盛以下全員が壮絶な討ち死にをし、和田氏は滅びました。この戦いで土肥、土屋ら頼朝旗揚げ以来の中村党も、和田氏に加勢し没落していきます。
 北条氏と協調関係を保ってきた三浦氏も、五代執権北条時頼の代、安達氏と対立し滅ぼされました。世に言う宝治合戦です。最後は三浦泰村以下一族郎党、頼朝の墓所の法華堂にこもり、頼朝の肖像画をかかげ、その前で自刃したと伝わります。

頼朝の死

 最後に頼朝の死について触れてみましょう。頼朝は建久九年(一一九八)十二月二十七日、相模川の橋供養に出席し、その帰路で病を発症。翌年一月十三日に五十三歳で亡くなりました。約二週間後の急逝です。その死因については現在も謎とされています。幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』には、落馬と記されています。しかし、これは頼朝死後十三年後の記事に出てくる話で、実は『吾妻鏡』には建久七年から十年一月までの記事が全く欠落しているのです。実は頼朝の死因は、他に糖尿病説、溺死説、亡霊崇り説、暗殺説、果ては愛人のもとへ忍んで出かけ警護の者に不審者と思われ、斬り殺されたという説まであります。
 『吾妻鏡』は幕府中枢にいた者が編纂したと考えられ、成立も鎌倉時代末期とされています。すでに北条氏が絶大な権力を握っていた時代です。歴史は勝者の記録であり、都合の悪いことは改ざんされたり抹消されたりするわけですが、そう考えると頼朝の死には、何か暗い影が感じられてしまうのです。
 何も持たない流人の身から周りに担がれ、武家の棟梁として海千山千の坂東武者たちを束ね、兄弟や御家人たちを猜疑心で粛清し続けた頼朝は、自らの最期をも予感していたのかもしれません。頼朝の死後、二代頼家、三代実朝も共に非業の死を遂げ、源氏の嫡流はわずか三代で途絶えました。


『玉葉集』に頼朝の詠んだ和歌が載っています。
 「偽りのことの葉しげき世にしあれば  思うといふも誠ならめや」
偽りの言葉ばかりの世の中だから、あなたが私を信頼しますよと言っても、本当でしょうか。まさに頼朝の人生観を表しているような歌です。

 

 


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