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田子の浦と山部赤人

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0005415 更新日:2021年3月20日更新
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富士 鋸南町から望む富士

田子の浦の富士

 日本を代表する霊峰富士。ここ鋸南町から見る富士山は、空気の澄み切った冬の朝には、ひときわ鮮明に、その雄姿を見せてくれます。

 「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪はふりける」

 万葉の歌人、山部赤人が富士を詠んだ有名な歌です。赤人は生没年、経歴ともに不詳ですが、奈良時代の下級官人だったようで、聖武天皇の紀伊、吉野、播磨などの行幸にお供して歌を詠んでおり、宮廷歌人として活躍しました。叙景歌に優れ、「万葉集」には長歌十三首、短歌三十六首が入っています。

 その赤人が詠んだこの歌の田子の浦とは、古来、駿河国蒲原、由井あたりの海岸とされてきました。しかし安房国の田子台のある勝山海岸であると主張した人物がいます。江戸時代後期の神代学者、山口志道です。明和二年(一七六五)長狭郡吉尾村(現在の千葉県鴨川市)に生まれた志道は、通称利右衛門、また杉庵とも号し、五十一歳の時、国学者である伏見稲荷の神官、荷田春満(かだのあずまろ)の流れをくむ荷田訓之(のりゆき)から稲荷古伝を受け、言語学と神道哲学を合わせたような神代学を創始しました。百人一首を研究した志道は、その著「百首正解」の中で、

 「山部赤人は上総山辺郡の産なり、故に赤人の富士を望むといふ歌は安房田子の浦にて詠まれし歌なり、安房郡海辺の総称を鏡が浦といひ、この海に富士の影をうつす故に名とす、右の海辺に田子といふ所あり、その下を田子の浦といふ、赤人ここより富士を望みて詠まれし歌なり、田子の浦といへば駿河にのみありとおもふは東海道に近きのいひなり」と述べています。

 たしかに内房の海岸からの富士のすばらしさは格別ですし、鋸南町には田子という地名があり、そこは上総と安房をつなぐ古代の官道が通っていたと言われます。では、赤人の上総山辺郡出身という説はどうでしょうか。

山部赤人伝説

 かつての山辺郡、現在の千葉県東金市田中に赤人塚なるものがあります。田んぼの中にぽつんとある塚で、赤人の墓と伝えられるものです。土地の伝承では、江戸時代初期の寛文年間に、この塚から一体の木像が掘り出されました。村人はこれを閻魔様と思い込み、閻魔堂に安置、のち法光寺に移しました。現在は朽ちてしまったその像が、赤人像だったのかは不明です。しかし、ここが赤人の墓という伝承はそうとう古くからあったようで、西行法師が赤人ゆかりの地を訪ねてここ上総を訪れており、少なくとも、ここの赤人伝説が平安時代末期までさかのぼることができるということです。

 また赤人が下総で詠んだ歌があるのです。

 「我も見つ 人にも告げむ勝鹿の 真間の手児名が奥つきところ」

 真間の手児名(ままのてこな)とは、下総の真間(市川市)に住んでいた美しい娘で、言い寄る男があまりに多いので、自身の罪深さを儚んで、真間の入り江に身を投げた純情可憐な乙女です。この歌は赤人が、その手児名の墓を通り過ぎた時、詠んだものです。つまり、下総には確実に来たことがあるということです。おそらく官人である赤人が訪れたのは下総国府(市川市)だったと考えられます。

 上総山辺郡は赤人のゆかりの地なのか、生誕の地なのか、没した地なのか、定かではありませんが、奈良から遠く下総国府へ出向いたとすれば、その帰途に、安房の国府(南房総市)へも訪問した可能性は十分考えられます。その官道の途中に田子台があるのです。

 富士の歌の中の「田子の浦ゆ」の「ゆ」とは、通過点を示す奈良時代特有の助詞だそうで、つまり田子の浦から視界の開けたところまで出てきて、真白く降り積もった雪をいただいた富士が目の前に現れた、という情景です。赤人が安房国府の帰途、勝山の田子の浦から船で戻ったとすれば、入り江の湊から船を漕ぎ出し、視界をさえぎっていた浮島を通り過ごして、大きな富士が目の前に現れる。まさにぴったりの情景だと思います。

 ただし、これらの説はあくまで仮説だということをお断りしておきます。

           参考文献 大野太平編纂「安房先賢偉人傳」・江畑耕作著「房総の歌人 山辺赤人」

 


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