ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

浮島伝説

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0005411 更新日:2021年3月20日更新
<外部リンク>

景行天皇のシェフ誕生

 勝山沖に浮かぶ風光明媚な浮島は、手つかずの原生林が残る無人島。「日本書紀」にも登場する古代伝承を今に伝える伝説と信仰の島です。

 はるか昔、日本の国造りに深く関わったとされるヤマトタケルノミコトという人物の伝説が日本には古くから語り継がれています。大和朝廷に従わない各地の部族を平定して功のあった武勇優れた若者で、東国平定の遠征の途上、病で亡くなります。ヤマトタケルは景行天皇の皇子でした。天皇は深く悲しみ、せめて遠征と同じ経路をたどって我が子を偲びたいと、房総へ渡って来たと伝えられます。

 「日本書紀」によると、景行天皇五十三年秋八月、大和を発った天皇は、十月に上総に至り海路安房へ渡りました。そして浮島に行宮を設けてしばらく滞在、ここでお供の臣、磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)という人物が料理の腕を振るい、天皇から賞賛されたと言います。さらに詳細な記述は、六雁命の子孫である氏族・高橋氏が記した「高橋氏文」にあります。不思議な鳴き声の海鳥やカツオの名前の由来など、浮島を舞台に古代の伝承ロマンが綴られています。

 「巻向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)の大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト・景行天皇のこと)はおっしゃいました。愛しい我が子を思い悲しむのは、いつになったら止むのだろう。天皇は小碓王(オウスノミコ・ヤマトタケルのこと)の平定した国々を見巡りたいと、伊勢に行幸して、転じて東国へ向かい、十月上総国に至り、安房浮島宮に着きました。

 お傍に仕えていた磐鹿六雁命は、天皇が葛飾野に狩りに出かけた時、大后の八坂媛(ヤサカヒメ)とともに浮島に留まっていました。その時、大后が六雁命に言いました。この浦に「駕我久久(ガガクク)」と聞こえる不思議な鳴き声の鳥がいます。その鳥をぜひ見たい。六雁命は舟を出して探しますが、どこかへ逃げ去って捕らえることはできませんでした。

 舟を返す時、多くの魚が舟を追って来ました。六雁命が弓の先の部分の堅い角弭(つぬはず)を海中に入れると、魚が食いつき、面白いほど多く捕れました。そこでその魚を「頑魚(かたうお)」と名付けました。今の言葉で言う「鰹(かつお)」です。また舟が干潮で砂上に上がってしまい、掘り出す際、八尺白蛤(やさかのうむぎ)を得ました。この二つを大后に献上したところ、お喜びになり、さっそく料理して天皇にお勧めしたらよろしいでしょう、との言葉を賜りました。

 そこで六雁命は、武蔵国造や秩父国造の先祖たちを呼び集め、これをなますにし、煮焼きし、さまざまに料理して盛り付け、準備を整え、天皇が狩りからお帰りになってから進上し、たいそう喜ばれたということです。」(「高橋氏文」意訳)

 六雁命の取り逃がした鳥は「日本書紀」では覚賀鳥(かくかのとり)とあり、ミサゴの古名と言われます。ちなみに勝山海岸にはミサゴ島という岩島があります。白蛤はうむぎとあり、これもハマグリの古名だそうです。また堅い角で出来た弓の先でカツオを獲る法は、まさしく現在の疑似餌の発祥と言えます。

 景行天皇から膳大伴部(かしわでのおおともべ)の姓を賜り、諸国の膳夫(かしわで・料理人のこと)の長として、末永く天皇家の料理をつかさどることを命じられた磐鹿六雁命は、のちに料理の神様として浮島神社に祀られました。いわば日本料理発祥の地が鋸南町勝山の浮島なのです。

 浮島神社には景行天皇、日本武尊、磐鹿六雁命が祀られていましたが、現在は加知山神社に合祀されています。毎年七月第二土曜日の勝山地区祭礼の翌日曜日、加知山神社から浮島神社へと御霊の島渡しが行われ、この日だけ浮島神社に御霊が戻ります。夕方にはまた加知山神社へと渡御され戻るのです。

浮島 浮島


菱川師宣記念館

収蔵品紹介
鋸南の歴史資料館
鋸南なるほど物語