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菱川家に幽霊がやって来た

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0003905 更新日:2020年5月15日更新
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鹿野 「鹿野武左衛門口伝ばなし」より

菱川家に幽霊がやって来た

 安房国保田出身の浮世絵師、菱川師宣の経歴については、いまだ不明な部分が多く、正確な生年月日もわかっていません。少年時代は保田で縫箔業を営む父、菱川吉左衛門のもとで、その修行に明け暮れていたと思われます。

 師宣こと菱川吉兵衛の名が、江戸で知られるようになったのは、寛文12年(1672)刊の「武家百人一首」の挿絵を描き、その奥付に「絵師 菱川吉兵衛」と署名してからです。これは当時、版下絵師が名を出すことなどなかった時代に、画期的なことでした。以後、数々のわかりやすくためになる絵入り版本の挿絵を描き、江戸庶民の人気を獲得していきます。情報発信に絵本を使い、また絵画の楽しさを広めようと、江戸のメディア界に新風を巻き起こした師宣は、今風に言えば、超売れっ子漫画家、江戸の浮世の名プロデューサーとも言える立場となっていきました。

 師宣の版本の序文の中には、彼のことを紹介した文章もあります。例えば「大和武者絵」には、「房州の海辺に住む菱川という絵師は、船の便りを使って、江戸の城下に移り住み、根っから絵が大好きで、幼い頃よりその道に心を寄せて、古くからの日本の絵画の諸流派を写し取っては腕を磨き、それに自分なりの工夫を加えて、ついに一流の絵師となり、浮世絵師と呼ばれるようになった」とあります。自分なりの工夫を加えて、というところが大事です。単なる絵の上手な絵師にとどまらず、そこに独自の発想と、時代を敏感に感じ取るセンスを融合させた師宣の絵は、浮世を謳歌する江戸の人々の心を巧みにつかんだのです。

 江戸での師宣の住所は、当時の資料から、堺町横町(人形町)、橘町、村松町二丁目などが確認されています。現在の中央区東日本橋あたりです。師宣が挿絵を描いた「鹿野武左衛門口伝ばなし」は、当時人気だった鹿野武左衛門という江戸落語の祖ともいうべき噺家の落ち話を集めた本で、その一話目に「とりつぎのそそう」と題して菱川家の話が載っています。この挿絵が師宣唯一の自画像となります。では現代風に読み下してみましょう。

「俳諧の先生、高井立志(たかいりゅうし)の息子で、松葉軒立詠(しょうようけんりゅうえい)という人が、八月中頃のある夕方、人形町にある俳諧の弟子、菱川師宣という絵師の家へ訪ねて参りまして、玄関で案内を乞いますと、とりつぎに出た菱川家の小者、これがけっこうそそっかしい男でして、主人の師宣の前に出て、『しょうりょうけんゆうれい様が、お越しになりました』と言います。師宣はそれを聞いてびっくり。『たしかに今は、お盆の時期だが、精霊軒幽霊とは、ぞっとする名だな。どんな姿をしていた?』『はい、やせた小坊主で、白い着物を着て、杖をついております』師宣先生、さすがに不審に思い、ものかげからおっかなびっくりのぞいて見れば、なんと知り合いの立詠。座敷に上げて、二人で大笑いいたしました。」


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