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頼朝と郷土の伝説

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0002294 更新日:2019年12月6日更新
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源頼朝の伝説(「鋸南町史」(昭和44年刊)より)

竜島(飯島、行山観音堂、神明の森、左右加氏、竜島の七姓、玉の井、蛯塚、駒立屋敷)
 頼朝着船の地を猟島とする。今鋸南町竜島。西端の浜を八王子と言い、八王子ノ宮を祀る。頼朝扁舟にさおさして当国に至り上陸の第一歩を印した所。時に治承4年8月29日の事であった。
 海上僅かの所に飯島という小島がある。今は海中に没し、潮干には頂を出す。従臣土肥実平(或は三浦義澄)炊飯の所と。後ろの山を行山、又旗立山という、先着の北条殿以下笹りんどうの旗を立てて目印とし、佐殿を待ちし所。中腹に一堂があり、薬師及び観音を祀る。頼朝ここに武運を祈りゆえに旗城山観音堂という(または大日堂なりしと)。頼朝神明の森に宿る。今の神明社の前身である。主人某、房総の将兵左右より多く来たり加わらん事を祈願し、よって姓を左右加と賜わった。
 又いう、頼朝、主の歓待を謝し、我、天下を取らば、安房一国を与えようと、某、聞違えて「粟一石は裏の畑でもとれます、それより姓を賜われ」と、公、笑うて「さうか、馬鹿なやつ」と独言したまう。某喜んで「左右加」「馬賀」を姓となしたと。前説真に近いか。

 公一日御気晴しのため御遊漁、海岸の″さざえ″に御足を痛め給い、
「飯島にさざえあるとも角なかれ」と。以来この海のさざえは今に至るまで角がない。おそらく波静かな所でおのずから角も退化したものか。この時漁夫、太郎右衛門、エイを得て献上した、ゆえにその島をエイ島という。エイ島あるいは飯島か。太郎右衛門は賞詞と共に姓を賜わり鰭崎という。浪人福原民部は珍らしい貝を得て献じたので、姓、生貝を賜い、御加勢を免ぜられた。
 竜島の民家は当時18戸ばかり、それぞれに姓を賜わり例えば、家居、小松茂るがゆえに「松山」といい、菊間・柴本・中山・久保田・鰭崎・生貝と共にこれを竜島の七姓という。頼朝公渡船の水主を艫井・間・渡といい、今勝山に伝わる。
 公飲用の井戸、弥惣兵衛家に伝える。これを玉の井という。字玉の井の起源であろう。ちなみに松山弥惣兵衛は、元禄11年房ケ谷の光顕寺を造った棟梁であった。
 行山南麓の小川家には拝領の槍を伝えたが数代前、ゆえあって刃物に打かえたという。行山西北麓に巨岩があり、東面して小洞二をうがつ、これを姥塚という。古来竜島、大六両村海境の一起点とされたが、頼朝のうば某、公の武運を日毎、堂に祈る、その死後これをまつりて姥塚としたと。9月3日出発の際御馬に召し給うところ、これを駒立屋敷という。左右加氏の私邸であろう。
 頼朝これより、上総に至らんとし、大六、池月(今、江月)大崩の峯伝いに嶺岡を経て貝渚に宿る。長狭の六郎らの夜襲にあい、4日安西が言を入れて勝山に帰り、12日まで、諸国に使を派して形勢観望のかたわら当国を巡見した。すなわち、5日海路洲の崎明神に参拝、11日、滝口明神、 野島、七浦、丸の館に入り、 十二日帰途鶴ケ谷八幡、那古寺、雀島明神を経て勝山に帰着、13日、300余騎再征のかどでに上る。岩井、平群、千代、本織、松田、和田浦、東条にて広常を待つ。至らざるにより、西進して大山から花立峠を越えて上総の西岸を北進造海、佐貰、磯根ケ崎、篠部、江川川尻を過ぎ、千葉常胤がもとに至らんとした。途中の江月、市井原等にも頼朝にちなむ伝説が伝えられる。

名馬、池月と馬賀氏
江月鶴ヶ峰山神宮に隣接して馬賀を名乗る旧家がある。乗馬池月を献上したので頼朝がその徳を賛え馬賀の姓を賜わったという。江月は池月をなまったもので馬の住んでいた場所を馬ノ住(小字)と称している。今も馬ノ住に近い武右衛門方に頼朝の馬つなぎ石がある。二十貫位の丸石である。
池月のひづめあとの石と伝えるものが、勝山小学校にもある。大きさ、およそ100×80×50cm位、中央に径深共10cm位の穴がある。もとこの地(中太房)の田んぼの中にあったが、耕作のじゃまだと取りのけると持主が病気になるといわれ、そのまま手をふれる者もなく残されていた。大正の初め、勝山小学校の敷地として田が買収されたので、今は校舎中央の 築山、明治が丘に移された。恐らく古社寺の礎石であろう。市井原字井戸の上、明石源治家の庭先、井戸の付近に も頼朝公乗馬のひづめ跡と称するものがある。

みやまの椎は実がならない
同字、八田地先には公の宿られた洞穴というものがある。これを過ぎ、瀬高-保田見-梨沢に通ずる道を「みやま」という。この道を馬に乗って通過中、椎の実が頭に当たったので、公は怒って「花が咲いても実はなるな」といわれ、以来「みやまの稚は実がならない」と。瀬高には早川を名乗る一族があるが、与兵衛家の祖は善左衛門為則と称し、石橋山の合戦に公に従い、後逃れてこの地に住し、農に帰したといわれる。

榎本家の二つ紋
大六の名主は榎本と言い、代代秀輔と称する。頼朝上陸の時、和田義盛繚あって同家の女をめとる。よって榎本家は以来、和田氏の紋と自家の紋とを組み合わせて使ったという。あるいは後の和田氏房総の所領や朝夷三郎伝説とも関連があるか。土地の人は同家を御代官と称して栄えたが、大正に至って後継が絶えた。

日本寺の大蘇鉄とかがみ岩
公、本名村に立ち寄って村名を問い、里人本名村と答えるを聞き、大いに喜び「我が本名を挙げんきざしならん」と。日本寺本堂前の大蘇鉄は頼朝公の手植えという。又明鐘岬にはかがみ岩がある。公が雨露をさけられし跡という。今、地形変じて定かではない。胃島、蔵掛け石など皆、公にちなむ。