ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 教育課 > 菱川師宣記念館 > 田子の浦と田子の台

本文

田子の浦と田子の台

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0001987 更新日:2019年12月6日更新
<外部リンク>

田子台(「鋸南町史」(昭和44年刊)より)

妙典台、正善寺跡、備後芝
 勝山東方に一小丘があり田子台という。縄文土器の破片を散出する。弥生式住居跡があり、今復元されている。昔の豪族の住家であったろうか。台上は平坦でほとんど山上にあるを覚えず、畑あり、井あり、生活に苦しむ事がない。徃古、勝山一帯が海におおわれていた時、恐らくこの台上の平地が、人人の生活の根拠であったのであろう。
古来富士の眺望は東海第一といわれる。
 長狭出身の郷土の先覚、山口志道(杉庵)はその著「百首正解」の中で、山部宿弥赤人の富士を望みて詠める歌を論じ、田子の浦は、東海道にあらずして、この地なりとしている。すなわち田子台下、勝山浦一帯は古昔田子の浦と称し、赤人はこの台に来たって富士を詠まれしものならんとする。論旨明快、人をしてうなずかしめるものがあるが、定説となす事は出来ない。しかし郷土の名勝にかかる所説なので後掲する。
 田子台上第二台地一帯の地は、昭和37年町立第二中学校の建設により大きくかわった。第一台地旧住居跡の東北に一古寺があり、長林寺という。里見氏のひらく所。
 これから東行500m、田子台東端の畑中に妙典台がある。日蓮説法の跡妙典寺の前身と伝えられる。
 台上を過ぎて小道をゆくことしばし、昔の平群、国府への大道に遇う。東行しはらく右側南斜面一帯に、「備後の芝」なる広場がある。里見氏の臣、安西(一説に三浦)備後守のかためた所という。その南方に字「城立場」の地名があり、恐らくこれと関連があろう。明治の中頃まではこの地で時おり付近の各小学校の連合大運動会が開かれた。
字峠塚、今精米所のあるあたりから東50m位、尾根の南側(今、地は二部に属す)に二部の大寺、黒石正善寺が初めて建てられた跡がある。黒い巨石があり、山号のよって来たる所。台上に袈裟掛の松、親鶯上人東国に巡錫のみぎり、波浪をさけて竜島に上陸、この寺にとどまられたという。みたらゐの跡、竹林前庭のたたずまいとおほしきもの、今はむなしく草むらの間に埋もれ、明治29年9月旧跡に建てられた石碑(重野安繹篆額)を残すのみ。(勝善寺誌)