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みさご島伝説

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 記事Id:0001312 更新日:2019年12月6日更新
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みさご島伝説(「鋸南町史」(昭和44年刊)より)

 勝山字仁浜、大黒山西端の海上に、かにのはさみのような島がある。海底において、岩派連結し、周囲3町余、「ミサゴ島、又傾城(けいせい)島」という。
 昔、弟橘媛(おとたちばなひめ)のなきがらがこの島に漂着し、里人ここに葬りしずめ、みささぎ島、又その操をたたえて、操島と称したが、いつの日にかなまって、ミサゴ島となった。年を経ること千数百年、風濤に崩壊して陵も失(う)せ、島形もまた現今のごとく変わったといわれる。 又、「シムダ」と言う地が近くにあり、すなわち、神武田で、これを御陵のあった所という。「シムダ」一に 「ミサンザイ」という。以上安房志の説だが、神田=蟹田と解すべきか。
 竜島海岸には八王子の名があり、日本武尊8人の王子にちなんで八王子という。

 日本書紀景行天皇40年の条に
 前略冬十月壬之朔の癸丑の日(ニ日)日本武尊発路。中略
 亦(ま)た相模(さがむ)に進(いで)まして、上総(かみつふさ)に往(おもむ)がむと欲(おぼ)し、海を望(おせ)りて高言(ことあげ)し曰(のたま)はく「是(こ)れ小(ちひ)さき海のみ。立跳(たちばしり)にも渡りつ可(べ)し。」乃(すなわ)ち海中(わたなか)に至りますに、暴風(あからしまかぜ)忽(たちま)ちに起りて、王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて渡るべからず。時に王(みこ)に従(したが)ひまつる妾(みめ)あり。弟橘媛(おとたちばなひめ)と曰(まを)す。穂積氏(ほづみのうじ)、忍山(おしやま)の宿禰(すくね)の女(むすめ)なり。王に啓(まを)して曰(まを)さく、「今風起(いまかぜふ)き浪泌(なみはや)くして王船没(みふねしづ)みなむとす。是(こ)れ、必ず海神(わたつかみ)の心也。願くは妾(やつこ)の身を以て王(みこ)の命(おほみいのち)贖(あがな)ひて、海に入(い)らむ」と。言ひをはりて乃(すなわ)ち瀾(なみ)を披(おしわ)けて入りぬ。暴風(あからしまかぜ)、即ち止みて、王船(みふね)岸に著(つ)くことを得たり。故れ時人(かれときのひと)、その海を号(なづ)けて、馳水(はしりみづ)と曰(い)ふ。
 爰(ここ)に日本武尊(やまとたけるのみこと)、則ち上総(かみつふさ)より転(うつ)りて陸奥国(みちのおくのくに)に入(い)ります。時に大(おほぎ)なる鏡を王船(みふね)に懸(か)けて、海路(うみつぢ)より葦の浦(あしのうら)に廻りて横さまに玉浦(たまのうら)を渡りて蝦夷(えみし)の境に至ります。後略

付記
 ここに出てくる葦浦はどこか。古来詳らかならず、これを吉浦、吉浜となす者もある。「みさご島」は覚賀の鳥の声ありし所、すなわち、みさご鳥の声を聞かれし所なりともいう。この場合は浮島伝説と結びつくわけである。