| 町報歴史資料館 |
| 1994年4月〜1995年3月 |
| 1994年4月号 ○哀れ、流人入道 勝山漁港と岩井袋漁港の間の岬をひるまが崎(字ひるまさ)といい、その昔には日入間が崎と書きました。流人物話を今に伝える場所です。 下佐久間村名主だった富永家所蔵の日入間が崎絵図に書き込まれた詞書きによると、昔、何とかの入道という人が罪を得て、都からここへ流されてきた時、船が磯に着くとその入道は、遥か西の空をながめて、「ふるさとは日の入るかたと詠むれば かわかぬ袖に八重のしほかぜ」と詠じ涙しましたが、さむらいたちは、哀れとも思わず、入道をせきたてて上陸させるとさっさと帰ってしまいました。「なんという情け知らずの振る舞い、この世の鬼とはこのことだ」 と入道は言ったといいます。以来、船の着いた所を鬼ケ崎、このあたりを日入間が崎と言うようになったそうです。 ○三つ巴漁場争論の顛末 かつて勝山と下佐久間が1村であった頃の名残りか、この付近の陸地畑は、下佐久間の飛地であり、海面も初めは下佐久間村で漁業をしていましたが、のちに分村した勝山村の支配海面となりました。 しかし、元禄の頃から岩井袋村が漁業権を主張、寛政6年 (1794) 小網かけ問題を機に同11年に至るまで、勝山、岩井袋、下佐久間3ケ村を巡る大紛争を巻き起こしたいわくつきの場所です。 まず小網を勝山村に持ち去られた岩井袋村が、藩庁に訴え、両村の争いとなり、これに下佐久間村も地先権を主張して介入、同9年に事件は勘定奉行所に移され、5年間にわたって紛糾しました。 係争中は、漁場への立ち入りを禁止されましたが、生計のためひそかに出漁する者もあり、漁中の勝山漁師が、岩井袋がわにとりおさえられる一幕もありました。 同11年4月、裁許が下り各村それぞれ、奉行所に請書(誓約書) を提出して終結しました。 その裁許とは「ひるまさは勝山、岩井袋両村の入会漁場とすること、下佐久間村には領海権はない、ただし毎年領主に納める魚海草などは両村にかけあって取ること、勝山村が取り上げた岩井袋村の網は早々に返すこと」 でした。 |
![]() 日入間が崎 |
![]() ひるまさ海岸絵図 (富永家文書) |
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| 1994年5月分 ○富士山に腰かけた大男? 江月の遠柿にデーデッポの足跡と呼ばれる窪地があるのを御存知ですか。これには次のような伝説があります。 むかし、デーデッポという雲をつくような巨人がいました。富士山に腰かけ、うち海(東京湾)で顔を洗ったというこの巨人は、ある時、海上を一またぎにして房州にやって来ましたが、すぐ上総の方へ行ってしまいました。 その時、一つせきばらいをしたところ、のどから飛び出したのが、勝山の浮島であると言われます。そしてその足跡が江月の遠柿にある窪地だそうです。 このデーデッポの足跡と言われる窪地は、山の尾根の上にあり、三畝歩 (約300平方メートル) の広さで、江月の弁天様の田として共同で耕作されていましたが、今は水が枯れ、耕作されていません。 ○巨人伝説を民俗学的に見ると こうした巨人伝説は、九州から東北地方まで全国各地にありますが、とくに千葉県には多く、足跡伝説だけでも三十以上もあります。呼び名もライラッポ、デイタロウ、データラボツチ、デージャク坊などとも呼ばれています。 市原市に伝わる伝説だと、富士山をこちらに引き寄せようとしたデーデッポが、その綱に使うための藤づるをさがしたが、自分の髪の毛より細かったので怒ったとか、今の養老川の川筋は、デーデッポの小便の流れたあとであるとか、足の泥を払い落としたものが小山になったなどと言われているそうです。 いずれも大地創造と結びつけられたデーデッポの伝説は大自然を創造し、国土を開いた偉大な神が、きっと超人的な体格を持ち、想像を絶する力をそなえていたに違いないという素朴な考え方と、これに対する崇敬と信仰を基盤に成立した、というのが民俗学的な理解の仕方となっているようです。 また、足跡のほとんどが沼や水田となっていること、西から海をまたいで房総にやって来たことなどは、稲作文化をはじめ、房総の文化の系譜が、西方から伝来してきたことを暗示しているとの見方もあるそうです。 |
![]() 咳から飛び出た浮島 |
![]() デーデッポの足跡は この山の尾根に |
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| 1994年6月号 ○宮彫師後藤一門の系譜 昔から安房国は、優れた社寺彫刻や工芸にたくみな名工を多数輩出しましたが、中でも江戸後期に出た後藤義光、武志伊八、武田石翁、安房の三名工と並び称され、房州各地に数多くの名作を残しています。 世に後藤彫りと呼ばれ、宮彫師後藤一門を築き上げたのが、初代義光こと、後藤利兵衛橘義光です。 義光は、文化12年 (1815) 北朝夷村 (千倉町) 上人塚の大工山口弥兵衛の子として生まれ、幼名を若松と言いました。子供の頃から天与の才をあらわし、父の大工道具を使いこなしたと言われ、23歳の時、当時、房州社寺彫刻を行っていた江戸京橋の宮彫師、後藤三次郎恒俊に入門しました。 小保田の安岡神社の彫刻はその恒俊の作品で、脇障子には、「張良靴ぬぎ」など中国の故事に題材をとった恒俊一流のみごとな彫刻がほどこされています。 ○房州各地に名彫刻を残す 義光は、28歳の時、浦賀叶明神の拝殿、向拝などの彫刻で、一躍その名声を確立しました。その後、京都、鎌倉、浦賀などで活躍し、40歳をすぎて故郷千倉に戻り、房州の社寺彫刻にその技のさえをみせました。 中でも吉浜の妙本寺の向拝彫刻は、安房に残る義光作品としては、最大級の優作といえます。 これは、元治元年 (1864)の作で、ノミの運び具合篭彫り様の技法など、師恒俊ゆずりの技法を土台に、向拝の親子龍、正面妻かざりの鳳凰など、雄大で荒彫仕上げの中に、木目をたくみに生かした美しさ、優しさが表現されています。義光は特に龍に優れていたと言われます。 また義光は、多くの優れた弟子を養成しました。二代義光を継いだ長男紋次郎、次男福太郎義道をはじめ、門下では、後藤兵三、喜三郎義信、利三郎義久、庄三郎忠明らが知られ、今なおその流れは続いています。 「私は職人として未だ快心の作を刻んだことがない。これから傑作を作るのだ。」 明治35年、88歳で亡〈なる直前に、義光は、こう言っていたそうです。 |
![]() 安岡神社彫刻 (後藤恒俊作) |
![]() 妙本寺向拝彫刻 (後藤義光作) |
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| 1994年7月分 ○名人 「波の伊八」 後藤家と共に、社寺彫刻のもう一方の雄として名を馳せたのが、武志伊八家です。 武志家は、長狭郡下打墨村(鴨川市) で名主をつとめる家柄で、もとを正せば千葉六党の一つ武石三郎胤盛の末裔と言われます。 宮彫師初代伊八は、本名を武志伊八郎信由といい、宝暦元年 (1751) に下打墨村に生まれました。江戸中期から関東一円の神社仏閣に装飾彫刻をほどこし、名人「波の伊八」とうたわれたのは、この信由のことです。 武志流の作風は、厚彫りで独特の風格があり、特に雄大な波を彫らせたら天下一品でそれゆえ「波の伊八」 とあだ名され、同業者仲間から「関東に行ったら波を彫るな」と恐れられていたほどでした。 伊八が誰についてその技を学んだかは不明ですが、言い伝えによると、一日中、浜辺から海を眺めていることもあり、波の技法はその観察力から生み出されたものかもしれません。 保田の観音寺の向拝の竜、木鼻などの彫刻は、伊八の若い頃の作と言われます。(安永5年 (1776) の銘) ただ仏殿を縮小した時、それに合わせて上下を削除してしまったことが惜しまれます。 ○四代目伊八の屋台彫刻 伊八は、文政7年 (1824) 73歳で亡くなりましたが、伊八の名は、代々子孫が継ぎ、二代信常、三代信実(信秘)、四代信明、五代信月と受け継がれ、伊八の彫物として、その名を不動のものとしました。 中佐久間の谷の屋台彫刻は四代伊八信明の作品です。躍動感あぶれる竜、喜び遊ぶ唐子、今まさにくずれんとする波など、豪快でかつ繊細な武志流の技法が、あますところなく発揮された名作です。 信明は、香取郡常盤村 (多古町) から三代信実の娘と結婚して婿養子に入り、四代伊八の名を継いだ人で、初代伊八信由に劣らぬ名工だったと言われます。彫刻の寺で有名な柴又帝釈天の彫刻に半生をつぎこんだと言われ、制作中に病に倒れました。 その後、五代信月をもって武志流の技は絶えました。 |
![]() 観音寺彫刻 (武志伊八信由) |
![]() 谷の屋台彫刻 (武志信明) |
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| 1994年8月分 ○長州海水浴のメッカ 明治22年夏、夏目漱石が学友4人と保田で海水浴をしたのが、房州海水浴の始まりといわれるそうですが、東京から房州へ向かう東京湾汽船が、まず最初に寄港するのが保田ということもあって、大正から昭和にかけて、保田は館山や富浦を抜いて房州一の避暑地となり、多くの海水浴客が訪れました。大正10年、当時世間を騒がせた理学博士石原純と女流歌人原阿佐緒の逃避行の地が、保田になったことで、多〈の文人、墨客もこぞって保四をめざし、保田はいわば文化人のリゾート地という感さえ生まれたと言います。 房州海水浴に、より拍車をかけたのが、大正6年8月の鉄道開通です。保田町では、大正11年から毎年8月10日にその日の滞在者を国勢調査式に調べました。それによると、大正11年に1,647人大正15年に3,962人、昭和6年に5,266人、昭和9年に6,165人と、うなぎのぼりに上昇、昭和3年当時の保田町の人口が5,638人でしたから、人口と同じくらいの人数がその日一日に滞在していたことになります。 ○保田八景で観光PR 保田観光協会は、昭和9年に創立され、観光PRにつとめました。次にあげるのは、保田の景色ベスト8として選ばれた保田八景です。 芝崎の帰帆 保田橋の夕照 権現橋の秋月 妙本寺の晩鐘 亀ヶ崎の夜雨 元名浦の落雁 鋸山の暮雪 キスが浦の晴嵐 また保田神社では東京音頭の盆踊り大会が催され、参加する者毎夕3千人を越えたと言います。 ところが、いいことばかりでもありません。昭和11年8月11日夜、保田町花火大会で、不発の一尺玉が大帷子の旅館の屋根に落ちて爆発、屋根一面が火の海となる事件がありました。 幸いというか、中にいた7歳の坊やと女中の2人が軽い火傷とけがをしただけですんだそうですが、この巌ぎに約1万人の見物客は逃げまどい大騒ぎだったそうです。 |
![]() 保田海岸の海水浴 (昭和初期) |
![]() 保田橋の景色 (昭和初期) |
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| 1994年9月分 ○近江八景に金沢八景 .先月号で保田八景を紹介したところ、反響があり、八景について興味を持たれ、いろいろ調べて教えて下さった方もおりました。 昔から有名な八景に、近江八景、金沢八景などがあります。保田八景(元名浦の落雁、芝崎の帰帆、キスが浦の晴嵐、鋸山の暮雪、権現橋の秋月、亀ヶ崎の夜雨、妙本寺の晩鐘、保田橋の夕照) は昭和11年頃、保田町の有志によって考え出されたようで、実は近江八景になぞらえて作られたものです。近江八景とは、琵琶湖畔の名勝八ケ所のことで、堅田の落雁、矢橋の帰帆、粟津の晴 嵐、比良の暮雪、石山の秋月、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、瀬田の夕照を指します。 また金沢八景とは、横浜近郊の金沢の名勝八ケ所のことで、平潟の落雁、乙艫の帰帆、洲崎の晴嵐、内川の暮雪、瀬戸の秋月、小泉の夜雨、称名の晩鐘、野島の夕照を指します。これらを見るといずれも地名こそ違え、下の文句は全て同じです。実はこうした八景には、おおもとがあったのです。 ○ルーツは中国の瀟湘八景 中国湖南省の洞庭湖の南にある瀟水と湘水をあわせて瀟湘と言い、この2水付近の優れた景色8ケ所を選んだものを瀟湘八景と言います。平砂落雁、遠浦帰帆、山市晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照、この八景は中国の宋代から画題としても広く行われていました。8という数字は、中国では縁起のよい数だったのです。 近江八景は明応9年 (1500) 近衛政家、尚通父子がこの瀟湘八景になぞらえて歌を詠んだのに始まると言われます。以来、日本でも景色のよい場所を何々八景と称し、8つの風景に地名を当てはめるようになったのです。 江戸時代になると、近江八景や金沢八景は、浮世絵の好画題として広重、北斎らの浮世絵に多く登場するようになり、庶民の間に広く知られるようになりました。 しかし、現在、これらの八景のうち、い〈つが昔の面影を残しているでしょうか。時代の流れとはいえ、美しい風景が失われていくのは寂しいものです。 |
![]() 近江八景 比良暮雪 (広重画) |
![]() 金沢八景 州崎晴嵐 (広重画) |
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| 1994年10月号 ○髪の毛の好きな狐 鋸南町にも古くから伝わる民話がたくさんあります。その一つを紹介しましょう。 上佐久間から富山町二部にぬける道沿いに養老という地名があります。むかし、その養老に髪の毛の好きな狐がいて、人を化かして丸坊主にしては、その髪の毛を食べていたそうです。 ある時、りこうな人が、「決して化かされないぞ」と心に決めて、二部へ用足しに出かけました。養老の休み場で一服していると、向こうからきれいな女の人がやって来ます。そして、「背中の赤ん坊がお乳を欲しがるので、ちょっとおろしてくださいな」 とたのみます。「さては狐め・・・」と、その人は赤ん坊を背中からおろすと大地へたたきつけてしまいました。「なんてひどい事を、あなたは鬼だ」 と女はその場に泣きくずれます。「いや、あんまりあなたが美しいので、てっきり養老のおたまが化けたのだと思って」「とんでもない。わたしは奥山から二部のお寺に嫁入りした者で、この子もだんだん大きくなったので、里の親に見せに行くところでした。こんなことになっては、行くに行かれず、さりとて二部へも帰れません。いっそ死んでしまいたい」とただ泣くばかりです。 さすがにその人も真っ青になってしまい、いっしょにお寺に行って事情を話し、あやまることにしました。 主の住職は合掌しお経を唱えたのち、神妙なおももちで「あなたの罪は万死にあたいします。しかし私も仏に使える身ゆえ、役所に突き出すのも心もとない。あなたがざんげして寺男になり、これからの一生を、庭掃き坊主としてこの子の菩提をとむらうならゆるしましょう」 と言います。 しかたなくその人は髪をおろすことにしました。住職に頭を剃ってもらいながら、しばらく神妙に鏡に向かっていましたが、どうも頭がチクチクと痛いので、フッと気がつき、あたりを見回すと、自分はお地蔵様の下の畑の中をはい回っていました。「しまった」 と頭に手をやると、時すでに遅く、丸坊主で一本の髪の毛もありませんでした。 |
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| 1994年11月分 ○多くの弟子を育てた師宣 江戸時代の延宝から元禄時代 (1673〜94) にかけて、菱川師宣は美人画掛軸、絵巻物、屏風など色鮮やかな肉筆画を描き、江戸庶民に大人気を誇った当代一の浮世絵師となっていました。 師宣は多くの弟子を育て、工房製作により、こうした肉筆画を数多く世に送り出していたようです。さて菱川の画系は、その後どのような道をたどったのでしょうか。 師宣には5人の子供がいました。男子は吉左衛門師房、沖之丞師喜、女子はヲイヌ、ヲヘン、妙林と言います。また作之丞師永という娘婿もいました。残念ながら三女のうち誰の婿なのか不明です。 この三人の息子は師宣の跡を継いで浄世絵師になりました。 身内以外の弟子たちの名をあげると師重、師平、師秀、師盛、和翁、友宣、友房などがいますが、彼らの経歴については、全くと言っていいほどわかっていません。彼らは師宣の絵を忠実に学びとり、菱川派という画派を形成、その絵画は世間にもてはやされました。 〇その後の菱川派絵師たち ところが、師宣の死後、菱川派は急速に衰えてしまいます。長男師房は師宣の絵に最も忠実だったようですが、やはり父に比べると迫力に欠けるようです。師房と菱川派の双璧をなしていたのが師重で彼は実質的な菱川派の後継者とまで言われましたが、後に本姓の古山に戻り、古山師重と名乗り古山派をつ〈りました。師重の弟子としては師政、師胤、師継らがいますが、彼らの代にいたって菱川の画系は絶えたと言われます。一方師房はその後、絵筆を折ってもとの紺屋に戻ったと言われ、師宣の保田での葬儀には施主となったようですがその後の消息、いつどこで亡くなったかも不明です。でも師房の子供佐次兵衛重嘉は保田の実家菱川家を継いだようです。その他の師宣の子供たち、弟子たちの消息も不明です。ただ一人、師宣の孫娘おさん (作之丞師永の娘) が女絵師として親の跡を継いだという記録が残されています。 菱川派は、師宣が偉大すぎたために、師宣一代限りでその幕を閉じたと言えます。 |
![]() 菱川師宣 「雑画巻」 |
![]() 菱川師宣 「雑画巻」 |
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| 1994年12月号 〇内蔵助も見入った美人絵 12月になると決まって話題になるものの一つに忠臣蔵があります。事件後まもなく歌舞伎に取り上げられて以来現代に至るまで、映画、テレビ、小説など日本人の心に訴える物語として喝采を浴びててきました。 あらすじは、藩磨国赤穂藩主浅野内匠頭が、元禄14年(1701)3月14日、江戸城中松の廊下で吉良上野介に刃傷に及び、ために内匠頭は即日切腹、領地召し上げ浅野家は断絶となります。城代家老大石内蔵助らは弟浅野大学を跡目に立てて浅野家再興運動をしますが効果なく、翌15年12月14日、大石ら赤穂浪士が吉良邸に討ち入り見事本懐を遂げます。浪士は翌年幕府から切腹を命じられました。 大石は討ち入り前、京都の山科で遊廓に入りびたり敵の目をごまかしたと言われますが、この時大石が床間に掛け朝夕眺めて愛していたのが、菱川師宣の描いた遊女の絵だったと言います。息子の主税は父を惑わす仇なりと、父の留守中その絵を破いてしまったいいます。「安房国古蹟並勝景図会」 に載っているこの話は本当かどうかわかりませんが、この頃、師宣の絵がたいへん世にもてはやされていたことを示す一つの逸話と言えるでしょう。 〇浅野家と安房国 さてその後、浅野家はどうなったかと言いますと、これが以外と知られていません。実は安房国と関わりがあるのです。 浅野家は再興されました。さすがに綱吉の代にははばかられたのか、宝永7年 (1710) 浅野大学は6代将軍家宣に御目見えし、5百石で旗本寄合に列せられました。知行こそ減らされましたが家名の存続は許されたのです。 この時浅野家の知行となったのが、安房国正木村 (館山市)4百石、江見村(鴨川市)百石でした。そして明治に至るまで、もと赤穂浅野家の生活、財政はこの安房国正木村と江見村の年貢米5百石が支えていたのです。 昭和61年、第11代浅野長楽氏が病死しました。披は天涯孤独で跡継ぎも無かったため、名家浅野家は、不運にもまた断絶してしまいました。 |
![]() 「仮名手本忠臣蔵 七段目」 北尾政美画 |
![]() 「赤穂浪士討入之図」 歌川国芳画 |
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