| きょなんのむかしばなし |
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| みさご島 | |
| 勝山には古代ロマンの伝説があります。その昔、大和朝廷から東国平定を任された景行天皇の皇子、ヤマトタケルノミコトが、内海(現在の東京湾)を渡ろうとすると、突然の大嵐で船が沈みそうになりました。その時、妃のオトタチバナヒメが身代わりに海に身投げして、海神の怒りを静め、無事房総に渡ることができたのです。ヒメのなきがらが流れ着いたのが、勝山海岸にあるみさご島と言われます。 |
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| 浮島伝説 | |
| 東国平定をなしとげたヤマトタケルの死後、父の景行天皇は、同じ旅路をたどって、勝山の浮島に来ました。浮島がとても気に入った天皇は、ここにしばらく滞在したと言います。この時、家来のイワカムツカリノミコトが、大きな白いハマグリやカツオを料理して天皇に差し上げたところ、たいそう喜ばれたそうです。 ムツカリノミコトは、以来、料理の神様としてまつられました。 |
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| 田子の浦 | |
| 万葉集、山部赤人の有名な歌「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」にある、田子の浦は、勝山海岸という説があります。江戸時代の神代学者、山口志道が発表した説です。勝山の田子台の下の海が田子の浦と呼ばれていたこと、赤人が上総国山辺郡(東金市)出身であるらしいことなどが根拠です。昔から富士の名所の鋸南。 冬の晴れた日などは、対岸の富士山は、すばらしくきれいに見えます。 |
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| 頼朝とつのなしサザエ | |
| 治承四年(1180)、伊豆で平家打倒の兵を拳げた源頼朝は、石橋山の戦いで敗れ、真鶴岬から、いったん安房の竜島(鋸南町)にのがれました。竜島に上陸する時、頼朝はあやまってサザエをふんでけがをしてしまいました。さいさきの悪いことなので、頼朝は怒って、「竜島のサザエにつのなど無くなってしまえ。」とどなりました。すると、それ以来、竜島のサザエには、つのが無くなってしまったと言われます。 |
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| 頼朝がくれた姓 | |
| 戦いに敗れ安房の竜島に逃れてきた源頼朝を、竜島の村人たちは親切にもてなしました。感激した頼朝は、こう言います。「わしが天下をとったなら、おまえたちに安房一国を与えよう。」それを聞いた村人は、安房一国を穀物の粟一石と勘違い。「粟なら畑で取れます。それより私たちに姓をください。」と言いました。頼朝は村人の欲のなさを笑い、「そうか、ばかだなぁ」と言いました。 それを村人は姓をくれたものとまた勘違い。「左右加」「馬賀」と名のるようになったと言います。 |
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| 水戸黄門がやって来た | |
| 諸国漫遊でおなじみの水戸黄門、徳川光圀の話は、テレビ時代劇でつくられたお話。旅に出ることのなかった黄門様ですが、延宝二年(1674)、鎌倉墓参の途中に、勝山に来ています。歴史書の「大日本史」を編さんしていた光圀は、各地の歴史や風景に興味があったようです。勝山の大黒山で休憩し昼食をとった光圀は、浮島や鋸山の景色を堪能した後、鋸山の難所を越えて、鎌倉へ向かいました。 |
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| 夏目漱石と保田 | |
| 明治の文豪、夏目漱石は、学生時代の夏休み、明治22年(1889)に保田に海水浴にやって来ました。友達5人と、昼は海水浴や鋸山散策、夜は酒盛りに囲碁、カルタと楽しく過ごしました。その時の紀行文「木屑録」によると、日増しにまっ黒に日焼けしていく自分を鏡で見てびっくりする漱石が描かれています。後に、小説「こころ」にも保田が舞台として登場しています。 |
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| 西条八十と童謡かなりや | |
| 「唄を忘れたかなりやは、後の山に捨てましょか、いえいえそれはなりませぬ・・」大正7年(1918)に発表きれた西条八十作詩の童謡「かなりや」は、保田で創作されたものです。八十は、学生時代から保田の海を愛し、毎年のように避暑に訪れています。保田の海をながめながら、詩の創作にふけった八十が、詩人として世に出るきっかけとなったのが、この「かなりや」でした。保田で出会った一人の少女かモデルとも言われます。 |
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| 小林一茶の房州紀行 | |
| 江戸時代の俳人、小林一茶は、同じ門下、葛飾派の人たちをたずねて、鋸南にも多く訪れています。元名の名主、岩崎児石や勝山の名主、醍醐新兵衛の家を訪ね、句会を開いたり、勝山の浄蓮寺に泊まった時は、「わざわざに、蝶も来て舞う夏花かな」などの句を残しています。日記によると、一茶はかなり好奇心が強かったようで珍しい樹木が実をつけたといううわさで見に出かけたり、鯨漁の見物をしたりしています。 |
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| 広重の房総スケッチ旅行 | |
| 「東海道五十三次」で有名な風景画の浮世絵師、歌川広重は、房総旅行をしています。江戸から木更津に船で行き、鹿野山などの神社や名所を見物しました。外房の清澄山や誕生寺を見て内房に回った広重は、勝山、保田を通り、その景色のすばらしさに感動しています。富士山の見える名所として有名な保田海岸を、後に浮世絵として描いています。日記によると道を間違えたり、酔って川に落ちたりと、少しおっちょこちょいな面も見せています。 |
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| デーデッポ | |
| むかし、デーデッポという巨人がいたという伝説があります。富士山に腰かけ、東京湾で顔を洗ったというこの巨人は、海をひとまたぎして房州にやって来ましたが、その時、咳払いをしたところ、ロから乗び出したのが浮島だそうです。江月にはデーデッポの足跡と呼ばれるくぼ地がありました。村の田んぼとして使われていましたが、今では使われていません。同じような巨人伝説は日本各地にあり、呼び名もライラッポ、デーダラボッチなどとも呼ばれています。 |
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| 十王様 | |
| 佐久間の十王堂にまつられている十王像は、10人のあの世の裁判官です。人は死ぬと7日ごとに十王様の前に出され、生前に悪い事をしていないか調べられます。閻魔様もその一人。天国へ行くか地獄へ行くか、この裁判にかかっています。昔の人は、十王様をおがんで、歩しでも罪が軽くなるよう祈ったのです。あぶない人は、8月15日の佐久間のお祭りに、十王様をおがんでみたらどうですか。 |
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| 市井原の獅子舞 | |
| 9月15日、市井原のお祭りに八幡神社に奉納される獅子舞と神楽舞は、雨乞いの神事です。昔は日照りが続くと田畑の作物がだめになってしまいます。そのため獅子舞を踊って、神様に雨をふらせてくれるように祈ったのです。三匹の親子獅子がおはやしに合わせておどる獅子舞と、一匹の獅子が刀を持って踊るって神楽舞とがあります。今では数少なくなった民俗芸能です。 |
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| 鯨塚 | |
| 勝山では、江戸時代に捕鯨が行われていました。漁期は夏。醍醐新兵衛が組織した鯨組の漁師たちが、大勢で船を出して、勝山沖にやって来るツチクジラをとっていました。解体した鯨からは、油をしぼったり、肉は干してくじらのタレにして食べました。漁が終わると、出刃組と呼ばれた解体する人たちは、鯨への感謝と供養のため、小さな石のほこらを建てました。板井ヶ谷には、鯨塚と呼ばれるほこらがたくさん建てられています。 |
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| 鐘についてきたタコ | |
| 鋸山の日本寺の鐘は、名鐘岬の海中から上がったそうです。栃木の佐野で造られ、鎌倉に移り、そして日本寺へと渡った鐘です。室町時代の作で、国の重要文化財です。伝説によると、海から上げられた時たくさんのタコが、鐘についてきたと言います。その後、このあたりでは、鐘を慕って集まるのか、たくさんのタコが取れるようになったそうです。明鐘のタコは、よほど信心深いようです。 |
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| 養老のおたま | |
| 上佐久間から二部へ抜ける山道に、その昔と養老のおたまといういたずらキツネがいました。人間を化かしては丸坊主にしていたのです。ある人が、決して化かされないぞと用心して、そこを通りかかると、向こうから赤ん坊を背負ったきれいな女の人がやって来ます。女は、お乳をやるので赤ん坊を背からおろして下さいと、男に頼みました。男は「さては化けキツネめ」と、赤ん坊をつかむと地面にたたきつけました。「なんということをするのです」と女の泣きわめく姿を見て、男は「勘蓬いか。これはたいへんなことをしてしまった」と謝りますが、取り返しがつきません。女の嫁ぎ先であるお寺に行き、わけを話し、ざんげして坊主となり、その子の菩提を一生とむらうことにしました。髪を下ろしてもらっていると、どうも頭がチクチクするので、はっと気づき、あたりを見回すと、そこは畑の中。しまったと思って、頭に手をやると、すっかり丸坊主になっていました。 |
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| 権兵衛さんとタヌキ | |
| むかし、下佐久間村に相撲好きの権兵衛という人がいました。ある日、岩井袋の親歳の家の手伝いに行き、お酒をごちそうになって夜道を帰ってくると、山道のやぶの中から「権兵衛、相撲とるべ」と声がします。さてはいたずらタヌキだなと思い、声のする方へかまえると、着ていた印ばんてんのえりをつかまれ、投げ飛ばされました。おみやげにもらった魚もなくなっています。くやしい権兵衛さんは、次の日の夜、同じ場所に来て、勝負をいどみますが、またえりをつかまれ投げ飛ばされてしまいます。「権兵衛は弱い」と草むらからはやされて、権兵衛さんはすっかり考えこんでしまいました。なぜ、真っ暗なのにおれの背中がわかるのか。おれの印ばんてんの背中の白い丸印めがけて来るのだろう。また次の夜、権兵衛さんは、印ばんてんの背を前にして着なおし、声と同時にかまえると大きなタヌキが飛び込んできました。力まかせに投げ飛ばすと、タヌキは「権兵衛、かんべん」と言いながら、逃げていきました。 |
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| 弥助稲荷 | |
| 吉浜の妙本寺の末寺、九州宮崎の本東寺の日幽上人が、ある日、高千穂あたりを通りかかると、村人が作物を荒らすキツネをとらえてこらしめています。かわいそうに思った上人は、村人からキツネをゆずり受け、もう悪さをしてはならんと、言い聞かせて、逃がしてあげました。しばらくして、お寺の下働きをさせてくださいとやって来た弥助という名の男がいます。とても働き者でした。 やがて上人は本山の妙本寺の住職となり、弥助もお供をして妙本寺に来ました。何年か後、弥助が突然、「国元に急用ができたのでおひまをいただきたいと思います。」と言いだしました。上人は、別れはつらかったのですが、弥助の望みにまかせ、玄関に見送りに出ると、そこには、弥助の姿はなく、一匹のキツネがなごりおしそうに、ふり返りながら山かげに消えていきました。あの時のキツネの恩返しだったのかと、上人は、境内にお稲荷様をまつり、その稲荷は、いつしか弥助稲荷と呼ばれるようになりました。 |
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| 人骨山の鬼 | |
| 大崩の畑地区に、人骨山という山があります。ここには昔、鬼が住んでいて、毎年節分の日になると、村の娘を一人づついけにえに山へ連れてくるようにと、村人の家に手紙を投げ入れておどしていました。毎年、泣く泣く娘が山へ登っていき、決して帰ってはきませんでした。 そんなことが続いたある年、一人の旅の修験者が村に来ました。村人の話を聞いて、「私は同じような話を琵琶湖のほとりで聞いたことがあります。その村では大きな犬を使って、鬼を退治したとのことです。」と言いました。村人は、さっそく琵琶湖まで行って、ドン太郎というその大きな犬を探し出し、借りてきました。そして節分の日、ドン太郎を山にあげて、ついに鬼を退治させたのです。 村に平和が戻ってきましたが、それまでに娘を差し出した家のことを思って、節分を思い出す行事はしなくなりました。今でも、大崩では節分に豆まきをしない風習が続いているそうです。 |
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| 古峰ケ原の天狗 | |
| むかし、佐久間の人たちが、栃木の古峰ヶ原の古峰神社にお参りに行った時のこと。かやぶきの大屋根がところどころ腐りかけています。「修理してやりたいが、かやがないからな」「おら方にはかやがあまってたのに」と話ながら、その夜は寝ましたが、なぜか一晩中、宿の庭でがやがや人声がしていました。翌朝、庭にはたくさんのかやが積まれています。神主さんが来て、あなたがたの村からかやを持ってきたので修理を頼みますと言いました。その夜夕食には豆腐が出ましたが、みな一口食べて「おらが村の伊三郎の豆腐の方がうまい」と言いました。すると次の日の食事においしい豆腐が出ました。「これは伊三郎どんの豆腐だ」と言うと、神主は「実は伊三郎さんの所から買ってきました。このやかんも借りてきたので、あなたたちから返してください」と言いました。さては古峰ヶ原にいると言う天狗のしわざかと驚きながら、村に帰って伊三郎に聞くと、「見なれない人が豆腐を買いにきたよ」と言いました。 |
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