| 里見関係伝説 | |
| ○ 明鐘合戦之事(房総里見誌)より 文明3年7月、里見義実、環城の真里谷道観を攻めんとて、白からは主力を率いて、大嶺より上総に入る。支隊は長男成義をして海岸路を進ましめた。時に『里見成義公は安西式部を案内とし、明ケ根近く攻め寄せ給ふに、真理谷丹波が家臣、佐久間藤右衛門といふ者、出張していたりければ、安西がいふやう「大方、彼はここの関守たるべし、刀穢すな、矢軍ばかりして敵の用意を試みよ」とて大勢の軍兵ども差し詰め引き詰め散々射たてけり。その時、日暮れければ、又忍びの者を入れて敵の要害を窺はせけるに、彼の斥候立ち帰り申すやう「この表には敵少々ばかり控へて候、その他は山野に伏せたる体にて候、これは味方が敵を小勢と侮りて、打つてかからん時、わざと逃け退き味方追ひ出づれば、山谷まで引き寄せ、彼の伏兵起り出でんと謀りたるかと見え候」と申しければ、大将成義公、聞しめし「さもあらんぞ、唯、遠篝して陣を張るべし」と。御下知に任せ、夜中絶さず数ケ所にて炬火焼き棄て、対陣したる体に見せけり。かくて安西、案内よく知りたれば軍兵を引率し、小舟どもを保田の浜より乗り出だし、夜陰に金谷の津に着けて、舟ども勢揃いして、陸路を経て、敵の後を志し、闇夜に松明を細くして、鋸山の谷合に討つて入る。大将成義公は本名(元名)の山間に軍兵を出だし、合図の貝鼓を打ち立て鬨を作り、唯、一揉みにと攻め立て給へは、案に相違の伏兵ども、前後鬨の声に驚き、周章して逃げんとするを、両勢の間に挟んで討ち立てけり。伏兵どもは途を失ひ、散々に逃げ廻る。寄手の軍兵、競ひかかりて追ひ散らし、軍勢をまとめ本陣にぞ集めける。かかりし程に、夜も明けければ、早旦より造海(竹岡)の城を押し取り巻き、鬨の声をどつと揚ぐ』(以下、百首の地名の起源となった歌百首の贈答の物語となるが省略する。) 金谷城は字要害通称城山にその跡をとどめる。面積およそ1万5千坪、山を負い、海に臨み文字通り要害の地であった。廷享3年寅5月同村明細帳にいう。 「一、往古里見持分古城跡御座候。城主は金谷権七郎と申し里見御一族之由申し伝え候。只今畑成本、二、三丸杯と申、様子相知れ不申候。旬論間数も相知れ不申候」 とある、権七郎は何人もあるが義堯を意味するか。 又、光圀の甲寅日記には「此所に不動山あり、不動山の上に古城跡あり、城主は真田八郎右衛門とて里見家の者にありしとぞ」 と記している。今の桃太郎園のあたりである。 〇 三浦志摩守、安西勝峯卒去の事(房総里見誌)より 義実、結城を逃れ、三浦氏に挨を乞う。勧めに従って安房に逃れ、後志摩守来りて義実を援く。文明18年『この時まで三浦志摩守存生なり。この人よく戦場に働き、与力の志他念なかりければ、夫君より、御客分と称して、安西備後が子、孫七に執権させ、直ちに安西が城外、田町という所に、居館を構へ、父兄のごとく給仕し、饗し給ひけり。されども老衰のことなれは、文明18年70余歳にて卒去しぬ。安西勝峯も同年79歳にして老死す。この人々、多年忠勤を抽んで、両国を切り従へしも、彼らが功、莫大なるがゆゑなり。然れども乱世の時節なれば「一日も安気させず、吾に先立たせし不憫さよ」と義実公甚だ歎かせ給ふ。理りなるかな。この君、当国入国の初めは去る文安3年なり。その時より敵国討伐を事とし、今年はで40年安堵の床に居させず「漸く今両国の主となりて、一城を設くる処に城築成就も待たず、子孫安居の悦眉をも見ず、別るる事の挽念さよ」と、深く愁嘆なさしめ給へば、近侍、外様の家の子「御道理至極」と共に袖をぞ湿しける。』 三浦志摩守の屋敷は今、南田町に畑となって残り、里人、志摩殿畑と称している。また、ここには稲荷が祀られ、旗をあげ、この旗で背をなでると、病をなおしてくださるとて、信心する者が多かった。これを志摩殿稲荷という。 前述備後芝はすなわち安西備後の居城であったか・ ○上野助義道花見の事、並に怪異の事(義道正しくは義通)(房総里見軍記巻の九) 『時に永正16年も3月中旬に至り、四方の花、今を盛りと咲き乱れたりしかば、義道、昵近に向うて申されけるは、 「我戦国に生れ合ひて剣戟のみに心を労し、ゆるやかなる事、曽つてなし、今は房州も我が手に属したれはいざや花見て遊ばん」とて、御舎弟の上総介殿御同道にて、勝山に幕打廻し、明金の洲に数多の舟をつなぎ、酒肴を運び、八重、一重に咲き乱れたる桜の下に毛氈を敷き並ぶれば、薄くれなゐの花の幕を垂れて、大将の御座には黒塗りの蒔絵散しの床几を据ゑ、御供の人々も皆、思ひ思ひの花むしろに座を設け、やがて酒宴をぞ繕はれける。兎角して盃の数も重なりければ、御供に立ちたる安西弥三郎とて器量百人にすぐれし美童、義道卿の御愛士にて、今日御酌に侍しけるが、側なる扇を押っ取って「冊冊たる高綾のうちしき、習習たる風に従ふ。人生、適に曳ときか、かの濁水の瀾にたとふ。寂々滞念多く、生酔して悦ぶ処を宴す」といふ詩の頌雅を今やうにあたりて、謡ひ出しければ、義道実堯を初めとして、両主の供人一しほ興を催したり。これに倣うて小姓の面月得手の芸を現はし、献酬度々廻りけれは、春の日永しと雖も、夕陽山の端に傾きけり。両卿共に名残りを惜みて居給ふ折柄、稲村の方に当つて一むらの黒雲出づると見るや、鳴動すること夥しく、光は空を貫き、地を走り、煙と覚しきが立ち蔽うて実堯卿が居城宮本の方へ靡きたり。両郷これを見給ひて、大きに驚き給ひ、「あらいぶかしや、天変なり.右に乗じて我欠が留守を窺ひ、叛逆の者、出で来もせしやと覚えたり」とて、取るものも取りあへず、上を下へと返しけれは、さしも遊山の花の山も、落花みじんに踏み荒らされ、義道は稲村さして急ぎ給ふ。然るに一天晴れ渡りて、未だ満ちたる月の光、皎々と輝き何の変りも見えざりけり…、後略』 以後義道健康勝れず、又宮本城(八束)なる実堯を久留里に移すといふ。かくて翌17年2月28才にて逝去し、実堯義豊義堯肉親相克の悲劇となるわけである。この段はその伏線として、房総軍記の著者のフィクションになるものであろう。 〇安房国、物見建給ふに付岡本城造営の事。 (房総里見誌、巻八)より 斯くて刀刃も納まれ共、盗賊共房州の沿岸を冒す。『或時、柏崎、船形の津に、小船に乗りて盗賊共身を甲胃に堅め、兵具を持ちて、夜に入り寄せ来りて夜中民家、寺院へ押入り、狼籍限りなし。入道殿 (義堯)驚かせ給ひ、当国、洲の岬、滝山、明ケ根、右三ケ所に物見矢倉を建てられ、昼夜なく、通る船をも改めらる。』然し乍ら猶、暗夜に小舟にで押来り、民家を冒す。房州在勤の諸武士の訴をもて岡本に一城を築く。 元亀元年夏着工、3年5月竣工、義弘これに移る。『此の城成就して三ケ所の物見に遠眼鏡を掛けて、盗賊船兇賊を見付けては、右の物見より狼煙を上ぐれば、滝山の狼煙明ケ根の「けし」に移り一度に燃え立つて本城に知らせ、番士手を組み、警固しければ、今は前とは事変り乱暴の煩ひなく、民も戸ざしを忘れたり。里俗君恩を忝うして「万年君様」と人称しけり。』 里見氏の警祓見張所は各所に置かれ、右の外伝える所では、勝山ひるまが崎、妙本寺山上の太鼓打場、中央路では、大崩の人骨山は火ともし山にて狼火をあげし所なりともいう。 日入る間が崎の図に「屏風石此所は、里見氏当国を領地せられし頃、此処に遠見の守りを居置れける用害の地なりと申伝えなり」 ○房州岡本氏の事 もと里見宗家より出で、臣となり岡本と称す。慶長16年6月13日、四郎兵衛、知行所保田へ赴かんとて途中、勝山にて乱波共廿余人に囲まれ切死にす、云云と。(里見軍記)小保田岡本氏と関係あるか。 ○早川氏と刈込氏 市井原、佐兵衝家の祖を早川和泉守という。 一族、早川を称して潮高に住す。他に刈込を名乗る家二軒。当時漱高−梨子沢路は軍用の道路として、その掃除、草刈に上手な者に刈込の姓を賜わり、旧姓早川を改めたという。 |
|