上人と白狐-妙本寺太鼓打場弥助稲荷
 妙本寺の末寺、宮崎市外本東寺に日幽という高僧があった。ある秋のこと、会葬のため、高千穂の峰近き剣持神社にさしかかると、大勢の百姓達がえものを手に、荒なわでしばり上げた白狐をせっかんしている。傍にはえんえんと火が燃えたち、狐は恐しさに身動きも出来ず、哀れみを乞うか、ヂーッと上人を見上げた。しさいをきけば、「コイツめがけん族をひきつれ、作物を荒らしまわるので、漸く引捕え、見せしめのため、火あぶりにするところで御座います」という。いかにも、あわれに思われ、若干の金子を与えて貰受け「これからは里には現われるなよ、けっして農家の作物は荒すなよ」と因果を含めて放ちやると、狐は嬉しげに後を見返り見返り山奥へと帰っていった。
 さて、その翌年のこと、下男にといって来た男がある。いかにもまめまめしく働くので弥助、弥助と手もとに置いて可愛がられた。
 その内に師は妙本寺二十八世上人に転座され、弥助もお供して本山に上り、忠実に働くうちに、年もくれ又翌年もくれて、元文2年の元旦のこと、弥助が、「まことに突然ですが、国もとの急用で本日限りお暇を頂きとうございます」という。あまりの急に上人も驚かれたが、望みにまかせ、遠路の帰国になにくれとなく手当てや注意を与え、さて、見送りにと、玄関まで出られると、不思議や弥助の姿はなく、金毛の白狐が物言いたげに師の姿を伏し拝んでは、ふり返りふり返り、名残惜しげに山蔭に滑えていりた。
「忘恩の徒多き人の世に、畜生ながら、長年我に仕えしまめまめしさよ」と、その報恩の志をめでられ、見晴し良き高台にその歪を祀られた。人呼んで弥助いなり、報恩のいなりよ、感謝のいなりよと、人人、祈願をこむれぼ必ずこれに報いたという。海上安全、浜大漁の稲荷として、今にのこる太鼓打場いなりの由来である。
 この地は、東京湾を望む景勝の地で、そのかみこの海に入水された弟橘媛の櫛、こうがいを祀る祠もあり、里見時代には、物見が置かれていた。又毎正月には代々の御前が、祖師伝来の袈裟をつけてここに上られ、新正のおつとめをされるという聖地でもある。
今、それらの祠は朽廃した。