浮島伝説


昔の浮島図(桂氏蔵)

勝山海岸からおよそ10町余、周囲7町12間、高さ200尺、面積本島6,216坪、属島大小170坪余。あたかも波上に浮ぶがごとく、ゆえに名づくという。昔は鵜来島と書いたこともあった。
 東南を除いては、断崖海にのぞんで削るがごとく、竹樹その上に茂り、眺望広かつまさに絶景というべきである。南に属島2、大ボッケ島、小ボッケ島という。昔は三島の巌脈は連続し、そのあたりにトンネル様の穴が2つあった。東南岸には10余隻の漁船を引くべき小浜があり、砂中には大蛤を生じたが、中古地震かつ風浪のため崩壊し、現状の三島となり、大小の岩石がこの小浜をみたしたといわれる。
 古老言う「岩角崩壊の際、多くの古土器が出現したことがあり、景行天皇行幸のみぎり、御親祭に用いられた祭器である…。
又もと藩士岡田文左衛門、かつて古土器を得、家宝としていたが明治31年6月浮島神社に奉約した」と。神鏡一体は天皇の奉約とも伝える。
 安房志は(要旨) いう
「社殿の北方に一古井あり、俗に「ミタル」という。けだし、御手洗の転訛にして、天皇御上陸の節御手を禊(みそが)せ給いしによる。清泉漠々として、三伏の炎暑と雖もかつて涸れしことなしという。(現在は崩壊跡形もないが、ここからの上陸は東西の坂より容易であったか)。同じく西北方に高さ4尺余の土堤あり、此の間に小池をうがつ。その平坦の処は即ち天皇、行宮の遺跡なりと。その南岸、稍彎局部を称して「大ヤド」と呼ぶ。是大宮の訛なり。又、加知山内宿の西方半町余に鳥居島あり、往古一の鳥居を建てられし所。字仁浜の海上1町余に1島あり、「チョウゴ島」と呼ぶ、即ち朝貢島の転訛なり」。又西南をタカツカドという。高塚角か。六雁の命の没後ここに塚を作り、海角なるを以て称したか。
 全島すべて神社境内であったが、明治6年土地制度改正の際境内区由を確定し、同村平井家に山林2筆合2町2畝16歩を払下げられ、残る境内地4畝20歩余は加知山3区の持。神社は加知山神社の末社となり、管理届かず、草木の茂るにまかせ、ほとんど荒廃に近かった。
 大正6年10月30日平井家から藤波芙蓉(恒吉)家に譲られ、昭和23年9月平田家の所有となる。
 昭和初年海水浴客の来遊しきりなる頃、この島に観光の施設を設け開発をはかった事もあったが、不幸にして大戦により中止、戦後は夏期遊覧船の発着があるが、島内の開発はなお行なわれていない。昭和37年10月島上に燈台一基を建設、船舶出入の安全をはかっている。
 房総一覧志に「浮島美竹を産す、小童笛をつくるに、美声也」と。この竹についてその伐採権を藩主から神主に賜わった文書を「浮島式様」という。「又桑の大樹ありたり」と。
さて、浮島伝説が古書に見えるのは書紀と、高橋氏文(たかはしのうじぶみ)である。

(1) 日本書紀景行天皇紀。(訓は飯田季治著によった)
 五十三年(いそじあまりみとせ)の秋八月丁卯(あきはつきみのとう)の朔(つきたち)の日天皇(すべらみこと)、群郷(まちぎみたち)に詔(みことのり)して曰(のたまは)く「朕(われ)、愛子(めぐみしこ)を顧(しぬ)ぶること、何(いずれ)の日にかは止(や)まぬ。冀(ねがは)くは小碓王(おうすのみこと)の所平(ことむけ)し国を巡狩(めぐりみ)むと欲(おも)ふ」と。是月乗輿伊勢(このつきすめらみこといせ)に幸(いでま)して、転(めぐ)りて東の海に入(ひがしのうみつみちい)ります。
 冬十月(ふゆかみなづき)、上総(かみつふさ)の国に至(いた)ります。海路(うみつぢ)より淡水門(あわのみなと)(安房)を渡ります。是時(このとき)に覚賀(かくか)の鳥の声聞(こゑき)こゆ。其(そ)の鳥の形を見そなはさむと欲(おぼ)して尋(まぎ)て海中(わたなか)に出(い)でます。仍(より)て白蛤(うむぎ)を得給(えたま)ふ。是於膳臣(ここにかじはでのおみ)の遠祖(とおつおや)、名は磐鹿六鴈(いはかむつかり)、蒲(かま)を以(も)て手繦(たすき)に為(し)て、白蛤(うむぎ)を膾(なます)に為(つく)りて進(たてまつ)る。故(か)れ六鴈(むつかり)の功(いさみ)を美(ほ)め給ひて膳大伴部(かじはでのおほとものへ)を賜(たま)へり。十二月東国(しはすのつきあづまのくに)より還(かへ)りまして、伊勢に居(おは)します。是(これ)を綺宮(かむはたのみや)と謂(まを)す。  

(2) 本朝月令年中行事秘抄引く所の「高橋氏文」にいう。
 掛畏巻向日代宮御宇大足彦忍代別尊(かけくもかしこきまきむくのひしろのみやにあめのしたしらしめすおほたらしひこあしろわけのみこと)(影行天皇)53年癸亥8月詔群郷日、朕顧愛子何日止乎。欲巡狩小碓王所平之国。是月行幸於伊勢転入東国。冬十月到于上総国安房浮島宮。爾時磐鹿六カツ命従駕仕奉矣。
天皇猟葛飾野。皇后駐在安房浮島官。遺磐鹿カツ命汎船海。
時顧船舳有魚多聚。磐鹿六カツ命以角弓之弭攪之魚即含弭出。
忽獲数隻。仍曰頑魚。後曰堅魚。今俗合堅魚二字為鰹。
中略、大后、詔はく、此浦に異鳥の音聞ゆ。其鳴焉駕我久久、その形を見まく欲う、云云。又言う。以下現代風に
 おきさき八坂入媛の命は、潮干に際し八尺(やさか)の白蛤(大きな白蛤)を得られました。「むつかりの命」はかつをと蛤を料理してさし上げましょうと、むさしの国造の祖、大多気比(おほたもひ)、ちちぶの国造の祖、天上腹人(あめのうえのはらびと)らをを手伝わせ、膾(なます)や煮物にし、河曲山(かわやま)の梔葉(しば)を八枚のたかつきとし〃真木〃の葉を八枚のひらに作り、日かげのかづらを縵とし″蒲の葉″をみづらに巻き、″まさきのかづら″を襷にし、帯にしむかばきを結んで、色色のこまごましたとりあわせのものを盛りつけ、天皇のおかえりになりました時、おすすめ申し上げました。
 天皇はみことのりして「これは″むつかり″ひとりの心からではなく、天つ神の賜わったものであろう。このやまとの国では、仕事(業績)を以て名とし誇とするものであるが汝の子孫は永く、わが子孫の天皇らの為に御食膳を清めととのえて仕えるが良かろう」と太刀を副えておほめの言葉を賜わりました。又この仕事には多くの家来部民も共に携わり仕えるが良かろうと、諸国の膳夫の人人を分割して、之に付与し、大伴部の姓を賜わりました。後略
 さて、ここにいう″覚賀の鳥″とは、和名抄には「みさご」とあるが、高橋氏文にはその「鳴声ががくく」とあり鳴声によって称したものであり、海鳥ではあろうが必ずしも「みさご」とは限らない。
潅鶏又は大鳥の類ででもあったろうか。又「うむぎ」は和名抄に海蛤、うむぎのかひとあり、はまぐりは同書には蚌蛤とあり、別のものとする。安房志は「この近海、蛤蜊を産す、形あかがひに似たり、屋瓦の状をなしその色白くして土人『うまがひ』と呼ぶ、これならん」とあり。又一説にうむぎは鰒の類である。淫羊カクの和名を「うむぎ」といいその葉形、鰒に似たり故に名づけるかと。房総志料「うむぎ」はむきみなりと。
 膳臣=姓氏録に景行天皇巡狩東国供献白蛤于時天皇、喜其奇美賜姓膳臣天武天皇十二年改膳臣賜高橋覿臣、
 功によって多くの膳夫らを膳ノ大伴部と名づけて、六鹿の命にさづけ賜わったわけであり高橋氏の遠祖である。
「蒲を以て手繦となす」とは、蒲は草の名、手繦は現今のたすきとは異り、礼式の際に着用するもので、昔膳部を整える人は必ずこれを着した。膾は今のなますを意味せず、単に肉の薄切りでむしろ″さしみ″を意味する。淡水門は、天津小湊の、湊となすもの。館山市の湊となす者あり、河曲山の梔葉の河曲は、和名抄にいう河曲郷で、湊川付近にあったもの、膾を進めしは今の柏崎すなわち膳崎であろろうと。
 右房総志料の所説であり、付記して後考を待つ。
 さて、浮島の宮は書紀本文には出て来ないのであるが、高橋氏文引く所のいわは異本に出てくるわけである。又、浮島の宮から、天皇が狩にお出になったともあり、それは葛飾の野であると書かれている。してみると、この浮島は茨城県の浮島がそれらしく思われる。右浮島が果たして何処であるかについては、江戸時代に伴信友の高橋氏文考に考証する所がある。 我らは今、その考証を論ずるわけではなく、物語伝説としての立場から、郷土の浮島関係の伝説を集めてみたわけである。