民話

1.分属の章魚

明鐘岬は安房君津の両郡を境しているが、此地の海に不思議な事が起った。
 それは文明元年(1469)7月(君津郡誌では6月)一日の早朝の事で、海の気色が常と異なり、波の高さは山のごとく音のすさまじさは言わん方もなかった。やがて、あらしはますます強く人通りも絶えてしまった。その20日程に、みぎわから2町ばかり離れて何物か飛出たように思われた。これは安房の地からもよく見られたことで、まことに物すごい限りであったが、22日の明方に至って磯に上がったものがある。ようやく風がないだので、其時は未だ家数16軒しかなかった金谷村の村民たちは、驚き怪しふながら恐る恐る尋ね寄って見たところ、大変大きな鉄の釜のふただった。人人は打笑いながら「何卒二つに分れなすったら、神に祭って差上げましょう」とあざけるかのようにいうと、不思議や不思議、ふたは一夜のうちに二つになったので、再びおやおやと、驚き、祠を作って金釜明神とあがめ祀った。ふたの周囲1丈8尺厚さ6寸(房総雑記には円径6尺余厚さ8寸、南総遊記には円径7尺5寸と見えている)明神の効験はあらたかで、その後このあたりでは一層章魚の漁が多く、海続きの保田海岸では章魚の漁が減って来た。ところが後年、明鐘岬の沖合に光り物がしだしてから、章魚の漁は元通りに復した。さらに後、明鐘の鼻から日本寺の古鐘が上がった時、その鐘には沢山の章魚が付いてきたといい、たこは鐘のあったあたりを慕って集まるのか、その頃からは金谷よりも多く捕れるようになったという。
 今は上総の章魚は金谷明神が守り、安房の章魚は日本寺の如来が、国境の岩を横向いに、その国の方に分けてお守りになるということである。(口碑) (日本伝説叢書安房の巻)
「上総、安房国界、此所の岩、皆横向にしてその国の方へ分けて向く実に奇なり。風雨の節は極難所也。通行なり難し。此所より土手続き、風雨の節は土岸崩れ落ち人馬損し恐ろしき所なり」(房総一覧志)

2.亀が崎の大あわび

寛文5年(1665)5月安房国亀が崎の潅上に、毎夜不思議な光物があったので、海士がもぐってみると大あわびがいたという。(寛政年間梅翁随筆)
 張朱鱗の「水府奇談」にも同様という。(日本伝鋭安房の巻)

3.なんじゃもんじゃの木

鋸山日本寺法堂の前に「なんじゃもんじゃ」の木がある。この木は「サラ」(沙羅)の木だといわれているが、まだ植物学上の正確な種類は明らかにされていない。「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる伝説の木は県内にもこの外に、香取郡神崎町に天然記念物に指定された大きな「クスノキ」があり、長生郡睦沢村に「ツキノキ」に似ていて葉が大きく、木の名がわからないものがあり、安房郡天津小湊町に沢山自生していて県の天然記念物に指定されている「マルバチシャ」という熱帯植物があり一般に見なれない木なので「なんじゃもんじゃ」と呼んだらしい。
 そもそも「なんじゃもんじゃ」とは「何じゃ」とただしたのに対して本当のことがわからないので「物じゃ」と答える問答の言葉であったのが、そのひょうきんな言葉の面白さから固有の名前になったものであろう。(房総の民話から)
 
○風土(藤)かづら
銀山大仏の嶺石の辺に多く見うけられる風土かづらは、水腫を治するに効験があるというので、土地の人達に珍重されている(房総一覧志)日蓮の教え給う薬草であるということである。
 かつてはこもり所の近くに日本一といわれた、千両の木があった。大きさ8尺5寸、朱の実、殊に実しく、これを貯うれば金銀に不自由なしといわれた。
 
〇日本寺の御子犬
 昔、日本寺に黄色の犬がどこからか来て住みついた。朝晩山内、鐘の鳴るころには必ず至って勤行の声に和した。吉凶、告げざる事なく、一山を守護した。名づけて、獅子犬と呼んだ。ある時、衆徒たわむれに一山同時に、鐘をついた。犬は驚いて、行く所を失ない、山下に駈降って、碁石が浦、黄金石の下に化し去った。一山の衰微これより始まるという。

4.子授け観音

保田の鹿峰観音は、子授け観音としてあまりにも有名である。子供を授からんとしてひそかに観音に詣でる人、牛の安産に年数度となく、祈願をこめる畜産家等、まことに少なくない。祈願参詣の際には、〃底のある袋をかりて来る〃〃真田紐をかりて来る〃〃桟俵をかりて来る〃と、いい、この願果たしには二つにして上げる習慣で、この観音に詣で子宝を得た事例は枚挙にいとまがないという。

5.腰衣観音

観音説話にはこのほか、天寧寺の不焼の観音、又上佐久間、佐久間亀一郎家に、腰衣観音というものがある。
 かつて同家の女子、江戸本郷弓町、本多帯刀様御屋敷に奉公中、奥方の病快復を祈念した所、観音様が夢枕に立ち給うた。すなわち、邸内庭先、霊光ありしあたりを掘るに、鍬先にあたって霊像あり、腰少しくひび入る。これ、腰の病ならんとて治療せしに、霊験あらたかにして、たちまち治癒した。
 後、女子これを授かって実家に奉じた。婦人の病に効ありとて、信奉する者少なからず。石像にして高さ5寸位、厨子に奉安する。ちなみに同家は代人佐久間忠右衛門と称し、佐久間村草分けの一、今に天正9年始祖の位牌を存する。中途、亀井を名乗り、屋号を亀の井という。

6.巨人「でえ、でえっぽ」

江月の遠柿(小字) 二宮mはかりの丘上に、3献歩位の田がある。部落の弁天様の田として青年達が耕作していたが、場所があまりにも不便なため、昭和の初め頃ついに耕作を放棄して荒れている。この田が巨人デーデッポの足跡と伝えられるものである。富士山に腰を掛けて東京湾で顔を洗ったというこの巨人は、湾口を一またぎにして房州に渡ってこの足跡を残し、さらに上総の方へと越していった。そこで一つせき払いをしたら、勝山の浮島が飛び出したとも伝えられている。
 ちなみにデーデッポの足跡は、九州から東北地方までの各地に分布しているが、特に千葉県には多いという。(房総の民話)

7.力持 市井原、神田の権兵衛

○殿様が下に下にとやって来るのに丁度神社前で出会った。権兵衛は其の時牛に炭を5、6俵つけてやって来たが、牛ごと支えて土下座した。
 ある時、名主の家に牛糞出し(クエー出し)に頼まれた。少しおそくなったが、9尺坪(1・5間平方)の糞を一背負にして前の畑の下畦(したやな)まで持って行った。
 鹿野山に敵二倍という願をかけたが、毎日角材を二本かついでは山に行き、煙草に火をつけて、鹿野山まで消さないで吸いつづけたといい、又、満願の日には運んだ角材を全部持上げたともいう。
 ある時、鹿野山に本場所の相撲がかかったので、赤っ八、(顔が赤かったのでこの名があった瀬高の八兵衛の出身)と二人で見物に出かけた。「なんだ、草相撲じゃないか」と大声でひやかしたら、関取衆が怒って相撲の相手を申出た。「赤っ八」は大柄で権兵衛はどちらかというと小柄であったので、赤っ八を待たせて権兵衛が先に立上って、相手を務めることになった。褌がなかったので、孟宗竹を指でパチパチとつぶし、腰に巻いて四股を踏んだら、パット切れてしまったという。
 自家の飼牛が病気で運悪く元旦に死んだ。始末を近所に頼んだが元日の事ゆえ、飾りもあり手伝をきらった。<そま(牛の死体)といって忌む習慣があった>権兵衛は自分で牛を背負って、向根十軒の家を回って「御心配をかけましたが、私が背負って始末しますから」と一軒づつ挨拶して歩いたという。

8.市井原瀬高の奇人早川与左衛門

① 数学に堪能
天元術程度の(現在の代数の上級程度か)和算に通じ、館山の八幡神社に算式を奉約したという。
② 模型飛行機で飛ぶ
 人間が飛べることを予言した。カラス其他の鳥を集め、体重を量り翼の長さを計って、人間の体重と比較して、両翼の大きさを割出し、凧の様なものを作って蔵の二階から飛下りたという。しかし不成功に終り脚を傷めた。又道幅の狭い所には一輪車を自作して使用した。
③ 常に馬皮の羽織(外套)を常用し、ごみが入らないからといって竹筒の眼鏡をかけていた。
④ 晩年には長持の中に寝たという。
⑤死期を覚るや、生前に句碑を庭先に立て、辞世の旬を自ら石に刻み。
  自ら快よき所なり○柳 柳至(雅号)
○印の所には、死期の春夏秋冬に応じて、春若青枯と刻むよう依頼した。この碑は墓所に現存する。
⑥ 弟3人いづれも奇行あり。
仁太郎=手先が器用で、いたずらに模造の札を造ったという。
八木蔵=知恵の米蔵ともいう。八木を米としゃれたのである。手先が器用で特に時計修理に堪能、後、本郷に時計店を出した。
麦蔵=力の麦蔵という。石臼の上部を盆の代わりにして給仕し、人をからかった。大力で炭俵11俵を背負ったともいう。

9.養老のおたま

昔、養老(上佐久間から二部に至る道路上にある字名)に髪の毛の好きな狐がいた。人をばかいては軌の毛を喰って丸坊主にLてしまった。
 ある利口な人が「けっしてばかされないぞ」と心にきめて、二部へ用達しに出かけた。養老の休場で一服していると、向うからきれいな女がやって来る。「せなかのあかごが乳を欲しがるからおろして下さいナ」 とたのむ。
「さては狐メ……」と、あか子を背から下ろすやいなや、大地へたたきつけた。
「ナントひどいことを、アナタは鬼だ」女はヨヨと泣きくずれた。「イヤあんまり、アナタが美しいので、テッキリ養老のお玉が化けたのだ………と思って………」
「とんでもない。わたしは奥山から二部のお寺へ嫁入りした者で、この子もだんだん大きくなったので、里の親に見せにゆくところ、途中で、こんなことになっては、ゆくにゆかれず、さりとて二部へももどれない。いっそ自分も死んでしまいたい」と身も世もないありさま。さすがにその人もびっくりして、「なんとも申訳けない」 ハテどうしたものかと相談すると、「ではお寺へいって、事情をとくと話して詫びて下さい」と、連立ってお寺にゆき、詫を入れると、主の僧は合掌唱名の後、やおら口を開いて、「貴公の罪は万死に値する。しかし仏家として、役所へ突出すのも心もとない。貴公がざんげして寺男となり、これからのちの一生を、庭掃き坊主として、この子の菩提を吊うなら、許してやろう」という。
 やむなく承知すると、「では髪をおろして……」と剃刀をとる。
しばらくは神妙に鏡に向っていたが、アマリチクチクと頭が痛いので、フッと気がつき、見回すと自分は地蔵尊下の畑中をはい回っていた。シマツタと頭に手をやったが、時すでに遅し、丸坊生で一本の毛もなかった。
 空をみれば、日はサンサンとまだ高かったという。

10.子種石

下佐久間の熊野神社には、石棒をまつってある。かつては神籠石といって丸形の石もあった。むかしは、安産のおまもりとして、又子のない婦人が子種石といって、この石を借りていったといわれる。
 これは、石棒や丸石が、生殖のシンボルとして、生産神たる熊野社に結びつけられたものらしい。
一説に、熊野の熊は米の古語ともいわれ、海洋波来の米作民族が定着した所には、必ず熊野の宮がまつられているともいわれる。